見出し画像

アーキテクチャとコミュニケーション #2

◆コンテンツ媒介型コミュニケーションの時代

しろくま P213で、街でもSNSでもコミュニケーションしたい相手と、コミュニケーションしたい話題を交わすという話があって、これには肯定派です。テレビとか、歌とかもそうですが、「みんなが知っているもの」がなくなり、個別化していっている。コンテンツ自体も多様化して、コミュニケーションも知っている人同士だけでする、というふうになっています。

うえむら P214では、逆に昔は「時間や空間がシェアされていたため、特定の相手と特定の話題だけでコミュニケーションする生活は考えられなかった」とあるけれど、これはいつの話よ?と思いませんか。少なくとも著者が過去の話として念頭に置いている80~90年代は、政治、野球、子育て、投資、噂話、天気の話なんかをしていたのではないの?と思います。そこでは「特定の話題だけでコミュニケーションする生活は考えられなかった」というか、いや、特定の話題しかなかったのではないの?「共通の話題が共通化されていた」だけで、「したくない話を無理矢理させられる」ようなアーキテクチャがあったわけではない

しろくま 分かります。『東京ラブストーリー』や『101回目のプロポーズ』のようなトレンディドラマの話をするみたいな。

こにし それ以外のメディアがない、たかだか3つや4つのチャンネルの選択肢しかなくて、視聴率40%とか言われたらそれは話が噛み合う。今はチャンネルが無限にあるので、話題が細分化されている。

しろくま 「細分化されている」のは確かだけれど、「自分の関心のある特定の話題だけをする」環境は別に変わっていないということですね。

こにし 「細分化」はそのとおりですよね。ネットメディアのせいなのか、話題が細分化されていて、例えばぼくは全然詳しくないですが、ガンダムの話題になったとしても、「ガンダムのなかでどれ」みたいな。ぼくは「ガンダム」の時点でついて行けないのだけど。

しろくま 「漫画が好き」とか「アニメが好き」というだけでは絶対に噛み合わない。

こにし 趣味の話題がメッシュ状に細かくなりすぎている。

うえむら それはジャンルという横の広がりでもあるし、文化の蓄積というか、縦の広がりもあるのですよね。過去の名作が好きだ、という人もいる。これからコンテンツを生み出す人は、過去の名作とも戦わないといけないので厳しい環境だ、と言いますよね。

こにし Netflixで過去の作品はいつでも無料で見られますからね。

しろくま 「先週のアレ観た?」という会話はなくなってくる感じですよね。

うえむら 「特定の話題」に話を戻すと、近代において成立していたコミュニケーションが、拡がりを持っていたような見せ方はどうかと思いました。P214には「選択していないコミュニケーションを強いられることがない」とも書いてあるけれど、「他に選択できるコミュニケーションがあるけれど」「濃密な人間関係の中でそうした選択肢がとれない」のではなく、選択肢がない状態だったのではないか。もちろんサブカルやアングラ文化というのはあったのでしょうけれど、今の私たちもそれだけを話している訳ではない。

こにし 「話したいことが話せない」可能性もあるし、「そもそも想像力に限界があって、その中のどれかを話していただけ」という可能性もある。それが現代から見たら、それで良かったのですか、という疑問はあるのかもしれないけれど、当時の人々は意外とそれで満足していたのかもしれない。政治の話題が典型的で、政治に熱狂していた時代には、政治の話題がみんなで共有されていた。いまはそれ以外の話題がたくさんあった上で、政治の話題を出すのがダサいという感覚もあるし、デモに行っても人によって言っていることが違う。それが新しい社会運動だという向きもありますけれど、現代的ではあります。

うえむら 金融機関に勤めていて、福岡支店に行ったヤツの話で、職場でもプライベートでも麻生太郎と、王貞治と、ソフトバンクホークスと、山笠祭りの話で完結しているという。

しろくま 普段何のコミュニケーションしているのかなとは思いましたね。場所の話は多いですね。旅行や食、グルメ系、そのあたりは普遍的ですかね。

うえむら 美容じゃないの。「そのネイル綺麗やん」とか。

しろくま 生活の知恵とか。

こにし あまり細かい話をすると、「そこ掘り下げるの?」というリアクションになってしまう。博多くらい限定的だと良いですが、裾野が広いと、どうしても浅い話題になってしまいます。

P215ではドライな時代が描写されていますが、そんな時代だからこそ、ウェットな関係性がかえって付加価値を得ているのは一周回って面白い気がします。例えば都会人の田舎への憧れやコロナ禍での飲み会ロスなどが観測される。それはそれで、本当の自由に立ち返っているかというと、そうではなくて、個人主義的で消費主義的なものに絡めとられているのですが。ドライなもののメタとして、そうではないライフスタイルが提案されるようにもなっている。

うえむら 繋がりの希求というテーマは、地方側としては期待するところではありますね。「関係人口」という形で地方創生に携わってくれる人が増えればありがたい。つながりを喪った若者に、そういう希望を持つ人が増えてきているという論文もあります。

こにし それがオタクや新人類が謳歌していた個人主義や消費主義に対するアンチテーゼや対案になっているかというと、その流れの上にしかない、同じものだとは思っています。提案されているものは自分でゼロから考えたものというよりは、企業がビジネスとして提案したものに乗っかっているだけなので。

うえむら パッケージ化されているよね。繋がりを求めて、地方自治オタクみたいなひとたちが地方を消費しているという側面もあるのはおっしゃるとおりです。どちらにしても「界隈」がある。

こにし 界隈でもあるし、売り物になってしまう。どちらが早いか、という話もあって、売り物になる前に参入する人もいるのだろうけれど、早すぎるからといってかっこいいわけでもない。売り物になるかならないかで行くアーリーアダプターが一番かっこいい。消費主義に拾われる前に、そういうライフスタイルに移行できる人は。

うえむら それは主に高知の山奥に家族で移住して情報商材を売っているインフルエンサーを念頭に置いているのかな?

こにし いえ、山伏とか修験者だと思っています。

うえむら そっちか(笑)確かに現代思想2021年5月臨時増刊号のタイトルは『総特集=陰陽道・修験道を考える』でしたね。

こにし 彼らは、ある瞬間を越えるとめちゃくちゃクールになる。

◆資本主義化するコミュニケーション

こにし いきなり例外から論じますが、「資本主義化するコミュニケーション」としてP218以降に書いてあるのは、コミュニケーションをとることが経済価値に繋がる(持つものから持たないものへの収奪をともなう)ということですが、それだけでなく、コミュニケーションをとるのがイヤだと感じる人びとに対して、その必要がないことが経済価値に結びついている側面もあるのではないかなと思いました。

例えば松屋は券売機で注文することによって、コミュニケーションコストを削減している。それはコミュニケーションが資本主義化したからこそ、その逆の流れとして生まれてきたことでもあるのかなと感じました。

うえむら 松屋の券売機はそれ自体付加価値を稼ぎ出しているというよりは、節約しているだけじゃないのかな。

こにし それ自体が価値になっている側面もあるかなとは思いました。そこは捉え方が色々あると思います。

しろくま この間話したコーチングや、オンラインサロンなど、コミュニケーションしたいためにお金を払うパターンは色々ありますよね。

こにし そうそう、ここで典型的に「コミュニケーションを資本主義化している」という事例はそういったものがありますね。

うえむら こにしさんの言う「コミュニケーションしないことを資本主義化する」のは、確かに最近『なにもしない』ジェニー・オデルという本が翻訳されて、何かをすることによってプラットフォーム企業にデータとして吸い上げられることに反抗する意図から、シーリングゲイザー(CeilingGazer)といった人々が登場しているのは事実だと思います。

こにし すごい名前ですね。それ言いだした人絶対音楽オタクでしょ。めっちゃセンスあるな。シューゲイザー(ShoeGazer)しか思い浮かばない。そういう音楽のジャンルがあるのですが。

うえむら または、中国でも寝そべり族と呼ばれる、最低限の仕事は日雇いでするけれども、それ以外の時間はずっと寝転がって暮らしている人々もいますね。そういうプラットフォームからの切断がマネタイズできているかというと、資本主義からの離脱というオルタナティブを提起はしていると思うけれど、資本主義化はしていないですよね。

しろくま 本論の方に戻ると、P219「就活や婚活」のコミュニケーションはその典型でした。「転職市場での価値を上げる」ことを当たり前のように思っていた会社員時代は視野が狭かったなと今になっては思います。転職市場、婚活市場の評価基準に縛られてしまうととても辛いのは容易に想像できます。

うえむら 人間が切り売りされて商品化されているとはよく言われます。特に最近はマッチングアプリが隆盛することで新たなコミュニケーションクラスが登場し、そのキーワードとして「ゴースティング」ということが言われます。就活のときに企業がするような、お別れするときのサイレントお祈りが、マッチングアプリで形成した関係性においても実践されているということです。実際に会ってみて、何度か食事してデートしているけれども、あるときフラッと連絡を取らなくなる、という関係性がある。

これまでの人間関係では、恋愛関係に至らない関係の人と疎遠になることはあるけれども、一度恋愛に近い関係になった人と別れるときには「別れ話」を必ず経由することが普通だったけれども、マッチングアプリが人間を商品化したが故に、ゴースティングの方が却って一般的になっている。

しろくま 商品としての都合が合わなくなったらサヨナラみたいな。

うえむら そういうサヨナラが、する側もされる側も後腐れがなくて心地よい、という新たなコミュニケーションクラスが生じてきている。

こにし 婚活サイトを使う人はそういう倫理観の人が多いのではないでしょうか。鎹がないというか、それが良いようにも悪いようにも捉えられますが、良いものだと捉える人が多い。

うえむら 例えば大学サークルなど、同じコミュニティの中で恋愛関係が形成されたのだとしたら、別れる際には周りにも説明責任が生じるし、サークルの集まりで会う可能性もあるのだから、別れ話のプロセスを踏まずに疎遠になることは許されない。

こにし ツッコまれることの鬱陶しさというか、そういうのがイヤで恋愛過程に発展しないという心理は社会の色々な場所にあるし、そういう調査結果もあったと思います。

しろくま 別れるときには、出会ったコミュニティから外れることさえ求められることがある。

こにし そういうのがダルいよねという感覚だと、婚活サイトは居心地が良いのではないでしょうか。

私も婚活については違う観点で思うところがあって、本当に曖昧さがないのだろうなという気がしています。選ぶ側も選ぶにあたって属性を予め設定している訳ですよね、例えば年収1,000万円以上とか。都内在住とか。それに引っかからないと、お祈りすらされない。

普通に暮らしている限りだと、本来そこってもう少し曖昧だったと思うのですよね。婚活サイトは、情報を開示していない方が信頼されない。信頼されるためにはまず情報を開示しないと行けない。そうなると格差社会ではないですが、持つ者と持たざる者の差が顕在化することが、容易に想像が付きます。

うえむら そこで語られている属性の内容もさることながら、開示していることそれ自体が価値になっていることが「資本主義化するコミュニケーション」という意味だとは思います。

こにし それに、開示されることによって、尺度が標準化されていると思います。それが残酷性をより高めている。

うえむら それは効果としてはあるよね。

しろくま 恋するときって別に基準を設けていないじゃないですか。気づいたら好きになっているというか。それが婚活だと、どっちも選ぶ側であり選ばれる側ですが、選ばれる側の目線だけでなく、選ぶ側としても基準を設けた上で会いに行くのが特殊だなと思います。「曖昧さがない」というのが本当にそうだと思います。条件付けして選びに行くという感じですよね。

こにし ある意味可能性が無限大です。リアルだと目に見えた範囲から○○さん、▷▷さん、というように選ぶでしょうし、目に見える範囲というのはせいぜい100人規模のサークルでも10人から20人くらいの選択肢だと思うのですが、マッチングアプリだと何のフィルタリングもしないと何万人とか候補が出てくる。情報量が多すぎるので、そこから年収フィルターや居住地フィルターなどを消去法で絞っていくと、数が減って選びやすくなるのだろうけれど、そのときに最初に選ばれるフィルターはだいたい誰でも同じなのだろうなと思うので、持たざる者からするとイヤな世の中だろうなと思います。

しろくま P222あたりで、「マイノリティ」とされている、自分自身の市場価値は低いと感じている人にとって、それは満足できる状況ではないでしょうね。転職市場における自分の経験からいくと、上限がないことでどこまでいっても満たされない感じがありました。

こにし 曖昧な社会は優しいなと思いました。

◆所与のその世界の外に出ることはできるのか

しろくま P223ではコミュニケーションにまで効率性が浸食してきているという話がされていましたが、これはうえむらさんが以前言っていたコスパ世代というやつですね。私はこれをすごく悲しいなと思います。仕事の価値観がプライベートにまで持ち込まれるのは。

うえむら プライベートが資本のロジックに浸されてきているというのは、「家族サービス」とか「クオリティ・タイム」という言葉、子どもと過ごす時間が一番「クオリティ」が高いという認識などに現れてきています。「クオリティ」というのはビジネス用語ですよね。

しろくま 確かに、いかに土日にも価値ある時間を過ごしたのかを考えてしまう

うえむら 土日にも生産性を考えてしまう。

こにし P225の冒頭の記述は少し気になりました。私の故郷もそうでしたが、そこまでお金持ちはそれほどいなかったですが、医者の子どもをトップに、中間層から生活保護層まで色々な人がごちゃ混ぜでした。

しかし東京のある場所よりも中心に近い場所になると、そこは明確に階層化されている気がします。そもそも住む場所によって棲み分けられて、お金を持っていないと住めない場所もあって、相対的に違う考え方や違う社会階層の人と関わる機会が少なくなって、それが中学、高校、大学、社会人まで続いていくことが容易に想像されると思っていました。

それが極限まで行ってしまうと、マスメディアにそれが出てきてしまって醜いね、という話です。それがTwitterなどに現れている。

しろくま そういう「いかにして自分たちの同類以外の接点を持ち、視野や世界観を広げられるだろうか?」という意識が、我々夫婦が地方で子どもを育てたい理由となっています。

うえむら そうですね。だから「醜い」という受け止めもあるでしょうし、子どもは多様な階層に触れるべきだ、という規範意識が、親の願いに繋がっている。

しろくま 小学校から東京で受験させちゃったら、ずっとそれ以降、そういう世界しか知らなくなってしまう。だからせめて小学校は色々な層がいる場に行かせたいと思いますね。

うえむら となると、夫は函館に移住するということ?

しろくま 二拠点生活の予定です。

うえむら それを小学校6年生までの12年間続けるということね。

しろくま 小学校入学からにしようかなと思っています。

うえむら 0-6が東京で、6-12が函館というイメージか。

しろくま 6-18が函館ですね。中高受験は自由ですが、でも中学校受験でわざわざ東京に行くとは言い出さない気がしますね。

うえむら そのあたりは、そのときになってのお楽しみですね。

こにし 我々のように、東京以外出身の人からするとそういう感想になると思いますが、元から東京にいる人の意見はちょっと分からないですね。

しろくま 元から東京にいる人の意見は聞いてみたいですね。

こにし 京都大学のことを「地方大学」と言う人たちの意見は聞きたくないですね。「都内の有名私立大学に行くことを諦めて神戸大学に行く」みたいな、「おいおい逆だろ」という価値観を恥ずかしげもなく言える人たちの話です。

◆プラットフォームに規定されるネットの情報伝達

こにし P227は要約すると、いわゆる「エコーチェンバー」という言葉がこうした状態を表現している。FacebookやInstagramなどを観ていると、勝手に最適化してくれる。特にアメリカでよく言われているのは、トランプ支持者は民主党支持の記事をもはや目に入れることすらない。メディアを通じて元々の意見をさらに先鋭化させるという話ですね。

かつて耳にして面白いと思ったのは、Smart newsは理念としてそれを防ぐような仕組みを実装しており、2019年9月に、「News From All Sides」機能(アプリ画面のスライダーを操作することで、保守層とリベラル層双方の視点で編集されたニュースを比較できる)をスタートさせて、意図的にその人の政治的価値観と異なるニュースをいくつか表示するような仕組みになっている。Smart newsを設立した鈴木健氏は『なめらかな社会と、その敵』で有名な著述家ですが、こういった実践もされていて、面白いと思いました。

うえむら まさに第6章の論述の主題である、アーキテクチャが人間の思考を規定するという話ですね。2020年のトランプ選挙のときにTwitter社は、リツイートをするときに「記事を読みましたか?」とポップアップを出していて、野放図な拡散を防いでいた。怒りにまかせた「直観システム」ではなくて、立ち止まって考える「推論システム」に働きかける設計をすることで、フェイクニュースやエコーチェンバーを抑制する試みがなされていたとも言いますね。

こにし 日本では思想的な社会の分断はそれほど語られていないような気はしますが、そういう側面は確実にあると思います。

うえむら ネット右翼の人たちが、言論空間やネットにおいてはあれほどのプレゼンスを示しているにもかかわらず、人口のボリューム層ではないというのはあるでしょうね。

◆本当にやってきたポストモダン

こにし アーキテクチャについて、著者はふたつの話をしていて、ひとつは横断歩道のない歩道を横断することを抑制する「環境管理型権力」として、ガードレールが絶え間なくあったり、監視カメラが設置されていたりという行動を抑制する装置が働いているというフィジカルな話をしていて、それは時間とともに大きく変わるわけではない。

一方のサイバー空間は、自分の知る限りではもっとすごい。アマゾンやFacebookによるパーソナライズは、精緻に設計されていて、例えばある時点だと○○を見せていたけれど、その人が進学を機に住む場所が変わったとか、結婚して子どもが産まれたといった、見たいものが▷▷に変化したときに、それにしっかり対応してくる。なぜそういうことができるかというと、スマホのフリックやマウスのカーソルの動きのひとつひとつのレベルからデータをとれるからで、それはフィジカルな「環境管理型権力」よりもよっぽど精緻だなと思います。DXが進んでいるのはそういう文脈でもあるだろうと思っています。

しろくま P236は地域共同体がなくなっている話ですよね。これからは地方も都市化して、規律や清潔さが浸透していくのがいいのか、それともマイノリティの受け皿となるように規律化していかない方がいいのか、地方の目指す姿みたいなものは議論してみたいです。

うえむら これは単純に面積的に管理が不可能なのではないかな。管理や監視は都市という限られた空間の中だから成立する文化なのであって、国土あまねく監視するというのは、中国くらい偏執的に取り組まないと難しいのではないでしょうか。

しろくま おのずと、そこまでの管理社会の浸透は進まないという見解ですか。

うえむら 一生懸命インフラ投資したとしても、管理対象となる人間そのものが少なくなったらコスパが悪いということから、投資が追いつかないままに結局腰砕けになっていくような気はしますけれど。

こにし 考える人によって違うでしょうし、私自身が何か知見を持つわけではないですが、富山県が東京からたくさんの有名な論者を呼んで、将来の富山のありかたを議論していたと思うので、それをちょっと読んでみようかなと思いました。富山はけっこう新しいことをやっているんですよね。地方に住む彼らはこれからの都市化について思っているのかという視点と、そこに東京の知恵が入るとどうなるのかについては、是非これから知見を深めたいと思います。

うえむら またご知見を共有頂ければと思います。

 【第6章終わり】

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?