サッチャ先生のお話

サッチャ先生のお話
(いつだったか忘れてしまった、けど覚えておきたくて書き出しました)

クリシュナはみんなのハートの中にいる
ジーヴァ(魂)が幸運であったならば
クリシュナ意識との接触を得ることができます。
クリシュナはその魂を導いてくださいます。
そしてスピリチュアルマスターに会うことができる。
それがグルとクリシュナの慈悲、という意味です。

クリシュナはすべてのジーヴァたちに慈悲を与える準備ができている。
スピリチュアルマスターとの交際の中で、ジーヴァのクリシュナ意識がそこで培われてゆく。
そしてクリシュナによって、心の内から助けられる。
そして外側からは、スピリチュアルマスターによって助けられます。
両者とも、ジーヴァを助けたいという思いがあるんですね。

ナーラダムニの生涯においてジーヴァがどのように幸運になるかというのが分かります。
彼は、召使いの女性をお母さんとして生まれたんですね。
彼女は、偉大な聖人たちが旅をしている間に彼らに仕えた女中さんだったんですね。
そして、ナーラダムニは彼らのプラサーダムをいただきました。
そこで、ヴァイシュナヴァの慈悲を得たわけですね。
また、こういうことを引用しています。

神への愛というのは永遠にジーヴァの心の中にある。
サッデヤというのはサダナという意味です。サダナは「無い」という意味です。
その愛を得るために、何かをしなくてはいけないということは「無い」ということです。
今もすでにそこにあるから。
しかしハレークリシュナのマントラを聴くことによって私たちが自覚していない、まだ目覚めていないその種が芽生えてくる。

とくに、そのバクティラタビージャをスピリチュアルマスターからもらった時に、
バクティラタという種と、それから神への愛というのは別ものなんですね。
イスコンのなかでは、私たちは神への愛を持ってないという風に大体の人は教わってきたと思います。それはグルからいただくものなんだと。
入門をうけたときに。
それは自分の中にはないから、外からもらわなきゃいけないと。
それが、精神性と宗教の違いでもあるんですね。
私たちはすでに、精神の魂ですね。クリシュナからきているわけですから。
それが、精神性なんですね。
すでに、自分のもっているもの。
宗教というのは外側から自分のもとにやってくるもの。
とても大切なものかもしれない。例えば教えとか、信じる気持ちとか、
方法とか、
でもそれは、本当の自分から見たらその自分の外側にあるものですよね。
チャイタンニャ神は続けます。
献身奉仕の種を受け取ると、その人は庭師のようにその種の面倒を見なければいけない。
そしてその種を心の中に入れる。
それは、私たちがすでに持っている神への愛とは違うもの、
プラブパーダは仰っていた。
私たちがすでにもっているこの愛を、目覚めさせるための方法、それが「種」ですね。
そしてチャンティングすることによって、その種に水をあげる。
そうすると、種が芽生えますね。
チャイタンニャ神が、また仰っている箇所
その水をかけたとしても、10の唱名に関する禁止事項を守らなければ
ちょっとした芽生えさえもおこらない。
そして、まわりの雑草ばっかりに水をあげないで、ちゃんと種に水をあげなきゃならない。


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