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バガヴァッドギーター第4章15節

古来より解脱した魂たちは皆
私の超越性を理解して行動した。
ゆえに君も古人たちを見習い
自分の義務を遂行せよ。

バガヴァッドギーター第4章15節

参加された方からの質問

「節の中では、クリシュナが私たちにおすすめしてることは古来より解脱した魂たちはみんな、クリシュナの超越性を理解して足跡に従って行動したから、君も自分の義務を遂行せよ。ってクリシュナはアルジュナに言っている。
その自分の義務っていうのは、アルジュナにとっては太陽神の足跡に従って、主の弟子の足跡に従ってクリシュナ意識で戦いなさい。ってことだと思うんですけど、私たちにとっての自分の義務っていうのは何でしょうか?」

サッチャ先生の回答

普通の場合はヴァルナアシュラムダルマとして考えられます。
アルジュナが生きていたころは社会というのはそういう風にオーガナイズされてたわけですよね。
ヴァルナアシュラムダルマに従って義務を遂行する。

私たちはそういうシステムの中で生きているのではありません。
ヴァルナアシュラム制度の中では、例えば管理職の人とか、戦わなければいけない人とか労働者とか、そういう人たちがそれぞれの性質に応じていろんな義務を行っていたわけですよね。
その義務を行うことによって、最終的には主に仕えることができるようにそうしていたわけですね。
私たちは今、そのヴァルナアシュラムの制度に従って生きているわけではないけれども、
自分の活動ややっていることをクリシュナとの関係の中で、それに関連しないでいろんな活動をしているわけじゃないですよね。
この人生の中で、この生活のなかで自分が持っているものそれがなんであろうと
それは例えば自分の身体だったり、マインドであったり、知性であったり
自分の才能であったり、自分の仕事であったり、家族であったり。友達であったり。
すべてのものは私たちに「与えられたもの」です。
誰がくれたんでしょうか?
「クリシュナ」すべての源、神
ですよね。
それが「クリシュナ意識」なんですね。
そういう意識をもつということがクリシュナ意識です。
そして自分の身体を使って、マインドを使って、知性を使って、才能を使って、
家族への奉仕、自分がやっている仕事、そういうことを最善を尽くして完璧にプレゼンス(今ココにいる)に自分をおきながらやると
そして同時に、その結果を完璧にクリシュナに依存してやると
他の人や、クリシュナを喜ばせるためにすると、
それは、古来からの精神的な先生からの導きに従ってすると
そうすると、私たちの人生の中核が「献身奉仕」(バクティ)ということになる。

そして神を悟ったり、自分自身を悟ること、そういう意識を高めていくことになりますね。
そしてそういう風に、毎日毎日修練していることを自分の日常生活に活かしていかなきゃけない。
そして、そういうことすべて含めて、クリシュナによって計画されたことだという風にみます。
例えば他の人たちとの付き合いの中で、私たちのアナルタ(心の汚れ)が出てくる。
そういうアナルタがでてきたところで、じゃあ自分の執着は
いったい何なのか分かる。
自分がどういうところで向上していかなきゃいけないかがわかる。
相手の人のことをね、神の子どもとしてみるのか、あるいは相手を自分の競争者としてみているのか。
そういう意味で、私たちの生活そのものが日々、クリシュナ意識であって、
自分の生活とクリシュナ意識が離れたものではないんです。
すべてのものがクリシュナと関連してみることができるようになることが、「献身奉仕」(バクティ)
私たちにとっての義務というのはそういうものだ。

私たちは、献身奉仕っていうと自分の生活とは離れたもののように思っているかもしれないけど
そういう風に思うことこそが、物質的な意識ということじゃない?

だからプラブパーダがよく、山にこもったり隠遁生活をするような人は本当の意味でのクリシュナ意識をもってない人ですよね。
理論は分かっているかもしれない。でもそれを自分の日常に活かしていくことができない

現実としては、クリシュナから離れているものは何もないわけですから
自分の生活そのものにしても、家族にしてもすべてクリシュナと繋がっているわけじゃない?
色んな事が起こっても、それは偶然起こったわけじゃない。
クリシュナがデザインして、いろんなことを起こらせてるわけだから、
その中で学んでいくのが本当の意味でのクリシュナ意識ではないですか?

色んな事が起こったり、いろんな人がいたりして
その背後にクリシュナがいるということが分かれば
私たちはクリシュナ意識で生活しているということになりますね。
それが分からないときには、私たちはクリシュナ意識のことを忘れてる、献身奉仕をしてないことになりますね。
例え献身奉仕の形で色々やっていたとしても。

人々は世界をありのままにはみていない。自分の眼、自分のフィルターを通してみているってよく言われますよね。
クリシュナ意識っていうのはとっても素晴らしいことだと思うんですけど、
それはプラブパーダが作った言葉ですね。
それは「クリシュナを意識する」ということ
だから、クリシュナのことをいつも意識してれば相手がだれであっても何であっても
それをクリシュナと関連付けて考えることができるはずですよね。
だからクリシュナ意識でない人っていうのは、
例えクリシュナ意識でなかったとしても、その人がクリシュナのこども、神さまの子どもではない、ということではないですよね。
その人がクリシュナから離れているわけでもない。
ただ、そういう人は夢の中で自分を見失ってる人、と考える。
夢から目覚めたくない人をね、目覚めさせることはできない。
そうやって無理強いして目覚めさせるのはクリシュナのデザインではないね。
実際クリシュナはね、目覚めたくない人を目覚めさせちゃいけないよとも言っています。
すべての生命体は自由意志があるわけですからそれを尊重しなきゃいけない。クリシュナもまたそれを尊重してくれている。
なにも心配することはないですね。
みんな、それぞれ、そこにいるべくしてそこにいる。
そういう生活をするべくしてそういう生活をしてる。
わたしたちがしなきゃいけないことはクリシュナ意識でもってハッピーになることです。
他の人にね、あなたはハッピーになりなさいとは言えないですよね。
自分自身から、ハッピーにならなきゃいけない。
そのハッピーになることって、とっても魅力的なことですよね。
そして、さらに正直になって、
さらに尊敬される人になって、
さらに謙虚になって
さらに慈悲深くなる。
もっともっと愛せる人になってくる。
他の人を変えることは誰もできないですね。自分しか変えることはできない。
クリシュナが、本当にひとりひとりに自由意志というものを与えてるから
自由意志を与えたというのはクリシュナのデザインなわけですね。
だから、主のご意志に従うとはそういうことです。

老子が言っているんですけども、人類に与えることのできる一番大きな恩恵というのは「自分自身が目覚めること」
そうでなければいったい何をあげたらいいのでしょうか。
自分が目覚めていなければいろんなことは理論でしかなく、実際のことではない。

他の人にインスピレーションを与えてあげることがあったら
自分自身がそういうインスピレーションをもらっているわけだから
それを相手の人が感じてくれれば
そういう風にすることが、本当の意味での奉仕(バクティ)ですよね。

私たちの奉仕は自分自身が目覚めること

シンプルに言うと、そういうこと。


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