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珪藻土マットの様な吸い込み力で。

『僕はきっとこの温度を忘れることはないだろう。』 

小学生編 -3


マタヒコ11歳、吉岡家での電撃的洗礼を受け、明らかな「音の目覚め」を迎えた僕は、それからというもの取り憑かれた様に洋楽を聴きあさった。

チェック柄シールの貼られたカセットテープがラジカセで走る事はめっきり減り、代わりに丸い塩化ヴァイナルが毎日、止まることなく回り続けた。
漆黒の円盤は表になり裏になり、毎晩、僕の部屋は宇宙になった。

とは言え、しょせん小学生の財力で買えるレコードには限りがあるわけで、僕のもっぱらの情報収集源は、ラジオや前出のtvkの音楽番組となっていた。
これは後で知る事になるのだが、神奈川ではtvkが洋邦問わず「ミュートマ」(大好き!)等、独自の音楽番組を多数制作して放送していたのだった。

とにかく僕は水を得た珪藻土マットの様な吸い込み力で、数ヶ月後にはUSAチャートの大体のジャンル傾向を把握するまでになっていた。(と言っても当時はそこまで細分化されていなかった)

「吉岡、FALCO聴いたかよ?! あの曲ヤバイぜ。」
「ふぁ、ファルコン?」
「何言ってんだよ、ネバー・エンディング・ストーリーみたいな顔しやがって」

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もう、あたかも自分が音楽を教えたかの様なマウントの取りっぷりである。

しかし実際FALCO様はヤバイ。

同じオーストリア出身である大偉人モーツァルトを、「ヤツはパンク野郎だ」とドイツ語でまくしたててラップする、っていうツッコミどころ満載のダンディズムおじさん。
でも僕にとってはQUEENよりもROCKなスーパースターだったんだ。

そうやって僕は、Billboard TOP40を一週たりとも見逃さずチェックする様な、立派な洋楽オタクへとすくすく成長していってた。

前はあんなに眩しかったスクールカーストのやつらも、いつの間にかもう目にも入らなくなっていた。

「こんなカッコイイ音楽が世の中にはあるんだぜ‥」(吉岡の受け売り)

と、同時に他の友達とすらもだんだん話が合わなくなって行ってるのに気付くのはもう少し先の事である。

「日本の音楽とか最近聴いてないなー」
自分で言うのも何だがほんとこまっしゃくれたガキである。

しかし、そんなマタヒコにまた新たなる洗礼が待ち受けているのを僕達はまだ知らない。


ーつづくー

<次回予告>

社交ダンスに目覚めた吉岡、そして訪れる決別
悲しみを乗り越えマタヒコは富士山頂を目指す
最期のクラス替え、そこで出会った地主の息子とは

次回、『吉岡、心のむこうに』


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