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ノームコアの向こうは

下着じゃない方のパンツのことをパンツと呼ぶのに慣れた。一昔前だとパンツとかアウターとかは「ぶっている」言葉として扱われがちだったし東京03もそんなコントをやっていたけれど、いつの間にか随分市民権を得たものだ。(言葉にダサいも何もないとは思うのだけれど、便宜上言うならば)ズボンと呼ぶダサさとパンツと呼ぶ恥ずかしさを天秤にかけて、前者の重みが増してきた感じがする。
それでも僕の中でボトムスはいまだにキリコ・キュービィが登場する装甲騎兵のアレみたいだなと思うし、トップスはいまだにチョコレートケーキのアレだなと思ってしまうのだが。

最近のファッション用語はむしろ横文字化の一途を辿るばかりで、ぶっているとか恥ずかしいとかの時代は本格的に終わったのだろう。「ノームコア」の次は「ゴープコア」だそうだ。


言葉にも流行があるし、変化していくものだし、言葉が持つ柔軟性みたいなものには寛容でありたい。時に「言葉のプロ」として扱われたりもする僕だが、やっているのは国語ではないし書いているのは論文ではないのだ。語学としての正しさも大事だけれど、言葉の本分は結局のところ「伝わる」ということである。
しかし「正しさ」と「伝わりやすさ」の間でもがくことは、まだ多い。

例えば。以前とある場面で「自分事」という言葉を使ったら、それは辞書に載っている正しい言葉ではないからと指摘を受けた。「他人事」に対する「自分事」。言い換えるとすれば当事者意識とかそういうことだが、「自分事」という言葉の持つニュアンスを伝えるには、他の言葉ではどうにも足りない気がした。指摘してきたその人にとっては「伝わりやすさ」より「正しさ」の方が大切なようだ。

例えば。中学受験塾の日能研は「シカクいアタマをマルくする。」というキャッチコピーを掲げているが、これもよく考えれば非常にニュアンスである。ああ、角が取れるんだな、と自然に理解はできるけれど、本来なら頭は固いか柔らかいかのどちらかだろう。果たしてシカクは固くてマルは柔らかいのか。豆腐はシカクいし鉄球はマルいがどうなんだ。そんなクレームは入らなかっただろうか。たぶん入らなかったんだろう。「正しさ」より「伝わりやすさ」である。


「ノームコア」という言葉も今や本来の意味から外れている。多くの人が意味を理解しきらないままに使って、解釈がずれて、そのまま広まっていった。いちいち目くじらを立てて訂正している人もいるし、もう新しいジャンルとして受け入れている人もいる。この派閥が相容れることはないのだ。僕はというとやっぱりもがいていて、むず痒さもあれば面白さも感じている。
ただ次に来る「ゴープコア」のゴープがGood Old Raisins and Peanuts(レーズンやピーナッツなどの携行食のこと)の略なんだと知って、もうこれは理解とかじゃないなと思った。もがきもしない。ドントシンクフィール。

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