「私はヨーコ JAL17期生」

 1973年の夏に起きたJALハイジャック事件をご記憶の方も多いだろう。
 この事件は日本赤軍とパレスチナ解放人民戦線の混合メンバーがパリから羽田へ向かう便に搭乗、最初はハイジャックの予定はなかったらしいのだが、ファーストクラスに乗った女性が持っていた手榴弾が誤爆したため、騒ぎが起き、メンバーは乗務員乗客の全員に両手を頭の上に乗せるよう要求、監視されたという。
 JAL 機は結局羽田には向かわず、着陸を要請した2、3の国には断られドバイ経由でリビアへ向かった。そこで人質は全員解放された。
 機内で手榴弾が爆発した時、ちょうどトイレで着物に着替えていたCAは慌てて扉を開けたが、パーサーに犯人女性の損傷した屍体を片づけるよう命じられたという。乗客の気持ちを案じたのだろう。パーサー自身は顔に傷を負ったそうだ。
 犯人達はリビア到着後に機体を爆破する旨、乗員乗務員にも告げ、彼らが客を下ろし自分たちも逃れて数分後に爆弾を使用したという。
 さて、当然爆破された機体は使えなくなったのだが、焼け残った部分もあった。最後尾、尾翼のある辺りである。
 で、まだ使えるじゃないかということで、何しろ旅客機はバカ高いお値段だし、再利用することになった。
 ハイジャックは悲劇的だが、いや、恐ろしいが、その後はなんだかマンガチックな成り行きである。
 機体の部分再利用は結構ある、というのはいささか意外だ。
 
 

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