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河内 亀頭山城

高千穂町河内地区は竹田、肥後国への交通要衝であり、江戸時代には関所も設けられた場所である。


土持氏に代わり、延岡城主となった高橋元種は高千穂を攻めた。

三田井家家臣、甲斐宗摂と内応し三田井親武を滅し、仲山城は落城した。

その後も大野原亀山城も攻め滅ぼし、徐々に勢力を伸ばしていく。

文禄3年(1594)8月、高橋元種は河内にある亀頭山城を攻めた。

この城は、自然の丘陵を利用した山城で、周りにも太鼓番や分城をおき、堅固であり、大友島津の戦いの中、大友軍が日向国を目指す中、この城だけは攻めあぐね、先に進めたというほどの城である。

城主は甲斐将監惟房。

高橋軍も苦戦を強いられた。

そこで、学者を呼び攻め方を研究するに、

この城は本城が亀の頭に当たり、胴体が城郭になっており、生き城という城で、到底このままでは落ちないが、亀の頭と胴を切り離せば死城となる 

と進言した。

そこで、高橋軍は夜中に頭と胴の中間を掘り切らせた。

すると、不思議なことに亀の首を切ったところ、おびただしい血が流れ出し、その下方に流れ込んだ。

よって、今ある『染野』という、地名はその血が流れた野原であったということである。

ついに、亀頭山城も死城と化し、高橋軍は総攻撃を仕掛けた。

いよいよ本城に押し詰めるも、惟房は術でも使ったかのように脱出し、行方知れずとなった。

惟房は奥鶴へ逃げ込み、親しくしていた者に匿ってもらっていたが、豊後へ落ちようと家人に話したところ、家人は「今付近では高橋軍が貴方を探している。少しでも動く事は困難であろう。それなら、私に御命を賜るならば、御菩提は懇ろに弔い申そう」と言いながら刀を抜いた。

それに怒った惟房であったが、2、3回合戦をし、外へ逃げ出した。

しかし、運も尽き、畑の黍の穀につまずき倒れ、その時に斬りつけられ、終いには首もあげられてしまった。

後に里人は、その霊を熊野三社権現石段横の法印寺(興善寺)の脇に死骸を葬り菩提を弔ったという。

熊野鳴滝神社。

河内、田原、上野にある熊野神社の本宮であり、古くは熊野三社権現と言ったが、いくつかの神社を合祀し、今は『十二社権現』『熊野鳴滝神社』と改称されている。

この石段横にあるお寺が興善寺。

現在、城跡として、亀頭山城跡へ登ることができる。

上には観音様や稲荷神社、甲斐有雄氏の彫った碑も里人によって集められていた。

確かに眺めの良い場所であり、遠くまで連絡を取り合ったりするには適した場所であったと思われる。

さて、田原支所のある駐車場には案内看板がある。

河内地区には「殿ん岩屋」や「殿ん森」という地名もあり、延岡松尾城が大友に攻められ、現土持神社がある妙にて自刃した土持高信の弟親信は薩摩へ逃れたとあるが、その一族がここへ逃げ、土着したとも言われる。

また、岩戸城主の富高将監が豊後で討ち死にし、その子富高大膳は永の内で討ち死にとあるが、河内、中西に逃げたとも言われる。

どちらにしても、土持一族がここ河内にも逃れてきたとされている。

※ 土持一族については、過去のnoteをご覧いただきたい。

現在、道路が整備され、なかなか車が通らなくなってしまった河内の町だが、地区の人たちの想いによって村おこしにも力を入れており、町中を歩きながら昔の街並みを学ぶことができる、とても興味深い地区である。

参考文献
高千穂太平記  西川功著
高千穂村々探訪 甲斐畩常著
高千穂郷八十八社名録 佐藤光俊発行
高千穂町史



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