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不完全なままで


竹内敏晴著『からだ・演劇・教育』(岩波新書)を読破した。レシートに11/1と書いてあったので、新書としては珍しく、2ヶ月かけて読んだことになる。

この本は70年代から80年代の定時制高校について、演劇を学校教育に組み込んでいこうと苦闘する教師の記録だ。詳細は是非とも読んでいただきたいが、僕の読了感としては、教育っていうのを軽々しく口に出す時点で、今の僕の授業もたかが知れているのだろうな、という一種の諦観だ。

出来るだけ学生の意見を聞こうと、それに対して反応しようとしているが、それは形式だけの、とってつけたような授業なのだろう。実際、僕の授業展開を予定調和だといって批判した学生もいる。

教室という環境に教師がいる時点で、教える側と教わる側という関係が対等でないことが半ば前提とされている。僕はそれが好きではなくて出来るだけ対等にと心がけるが、それはおそらく意識してやるものでもないんだろう。無意識に、自然に学生に接している時こそ、本当に対等に接しているのだろう。

でもそこからしか、多分出発できないんだろうなとも思う。教えるのが仕事という契約で来ているのだから、何かを、この場合は英語を教えないといけない。そして学生は英語を学ばないといけない。でないと単位が出ず、卒業できない。それで納得できるなら問題ない。

つまり教育というものをどう捉えるかの問題だろう。あまりにも崇高なものと捉えてしまうと授業なんて恐れ多くてできないし、かといって雑談の延長と考えても学生に失礼だ。

本書では教師が一般的に不良と言われている生徒とガチンコで向き合う様子が幾度となく出てくる。その潤滑油として、演劇があると僕は理解している。演劇を通じて、生徒が変わり、親が変わり、教師が変わっていく。

今研究しているSDGsの自分ごと化についても、なんらかの潤滑油というか、触媒のようなものが必要ではないかと考えている。二者が正面から睨み合っているとおっかないが、間に第三の何かが入ることによって、二者の視線は第三の何かに向かう。それは二者が同じ方向を向いて進んでいくきっかけにもなる。

先述の予定調和というのは、先に結論ありきの授業があって、それを学生に押し付けるような形で提供されることだとすると、そのようなものは絶対に悪だと言い切れるだろうか。

実はそうとも限らない。実際、予定調和に対抗するために学生は「めちゃめちゃ考えて授業に臨む」と言った。予定調和であることが悪なのではなく、それをどのように料理するかに学生は注目しているのかも知れない。

教えるために来ているのだから、結論は確かにある。しかしそれを学生に押し付けるつもりはない。「俺はこう思う。君の考えを聞きたい」という姿勢で臨むと、学生は攻撃体制が取れる。不完全なままで体当たりして、反撃を喰らって知識が全然足りず降参、ということもある。降参させるまでに学生は色々考えたんではなかろうか。その結果負かされたのであれば、本望とまでは言わないが、まあ良かったのではないだろうか。

教育は不完全なままだ。授業は毎回が生き物だから、結論ありきで臨んでもポシャることはある。それが面白いし、今日はどんな議論が学生とできるのか楽しみになる。ここまでくるとどちらが勉強させてもらっているのか分からないが、これが非常勤講師2年目の偽らざる気持ちである。

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