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【山田太郎問題】「国連論破神話」の解体#1:ただの居直り

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 なお、シリーズの記事一覧は『
【山田太郎問題】序文と記事まとめ』から。


 山田太郎はこれまで、2冊の新書を出版してきた。その両方で言及され、現在も言及され続けている最大の「成果」に、国連特別報告者マオド・ド・ブーア=ブキッキオ氏の発言に対する対応がある。これを私は、便宜上「国連特別報告者論破神話」と呼ぶことにする。

 神話、というのは広く信じられているが事実に反するか事実からかけ離れた物語を指す。「レイプ神話」や「安全神話」がその代表例である。つまり、山田太郎の主張する「成果」は、これらと同様に虚構の神話に過ぎない、というのがここからの記事での私の主要な主張である。

 ここでは、まず前提として、山田太郎がどのように「国連特別報告者論破神話」を「成果」として主張しているか確認する。そして、その主張が総体的に誤りであり、単なる居直りに過ぎないことを確認するのがこの記事である。次回以降の記事では、具体的な彼の反論について取り上げ、それがいかに曲解と稚拙な詭弁によって成立しているかを明らかにする。

国連特別報告者論破神話

 この神話の始まりは2015年10月18日、国連特別報告者であるマオド・ド・ブーア=ブキッキオ氏が来日し、日本における女性の性的搾取の現状を視察したことに端を発する。ブキッキオ氏は東京や大阪、沖縄を訪れ、8日後の26日に会見を開いた。なお、この内容は『【参考】国連特別報告者マオド・ド・ブーア=ブキッキオ氏の記者会見の書き起こし』にまとめた。

 山田太郎が問題視したのは、主にこの会見での発言である。内容を大まかにまとめると、ブキッキオ氏はこの会見で「日本の女子学生の13%が援助交際を行っている」などと指摘し、かつ、マンガやアニメなどの創作物を規制すべきだと訴えた。

 山田太郎は、特に13%という発言に対して事実無根であると反発、11月2日に国連人権高等弁務官事務所に抗議した。また、政府は11月7日に在ジュネーブ大使に抗議を行い、10日には菅義偉官房長官(当時)が会見でこの発言を批判、ブキッキオ氏は11日に発言を撤回するところまで追い込まれてしまった。加えて、山田太郎は2016年1月18日の参議院予算委員会で岸田文雄外務大臣(当時)に質問を行い、撤回までの経緯を説明させた。(以上は全て『守り方』による)

 創作物の規制については、山田太郎は『闘い方』において、ブキッキオ氏が日本は国際上創作物を規制する義務を負っていると主張したと指摘し、これを政府への質問主意書で否定したとしている。

 ここでの山田太郎の「成果」を大きくまとめると2点挙げられるだろう。1点目は、事実に反する主張に毅然と抗議し、日本が性犯罪大国であるかのようなイメージを正したこと。2点目は、国連特別報告者の主張に何ら法的拘束力がなく、日本に従う義務がないことを確認し表現規制を防いだことである。このため、山田太郎によって日本の表現は守られたのだ、めでたしめでたし。というのが神話の構造である。

 しかし、本当にそうなのだろうか。1点目は後続の記事に譲るとして、ここでは2点目について論じよう。

義務がないのは当然で、何ら新しい指摘ではない

 そもそも、「国連特別報告者の主張に何ら法的拘束力がなく、日本に従う義務がない」などということは、確認するまでもなく当然のことである。なぜなら、国際条約ですら、その国が批准し、かつ国会で承認を得なければ国内に影響を及ぼすことはできないのだから。いわんや特別報告者においてをや、ということである。

 実際、日本が批准していない国際条約は山ほどある。例えば、国際労働基準にかかわる条約であるILO条約のうち、日本は4分の3程度は批准していない。批准していない条約の中には週四十時間制(つまり実質的には1日8時間労働制)を定めた四十七号などがあり、これについて日本は国内法を整備する義務を現在負っていないことになる。

 いかに国連と言えども、内政は個々の国ごとに独立しており、これを容易に侵すことはできない。そのため、国連特別報告者の主張に強制性が存在しないのは驚くべきことではない。

 山田太郎は、さも自分が重要なことを指摘したかのように主張しているかもしれない。しかし、実際には当然のことを質問主意書で尋ねたら当然の答えが返ってきたというだけである。彼は自身の確認によって規制が防がれたと自画自賛するが、日本が国際条約や勧告を無視するのはいまに始まった話ではなく、これもまた山田太郎が何かをするまでもないことであった。

 これが、山田太郎による「国連特別報告者論破神話」の虚構の1つである。つまり、成し遂げられたと主張されている仕事は、実際にはやってもやらなくても何ら問題のない些末なものに過ぎなかったというわけだ。

居直っていいわけではない

 では、国連特別報告者には何の意味もないのだろうか。法的拘束力がないというだけで、特別報告者の主張を無視していいのだろうか。

 もちろん、そうではない。これには2つの側面から指摘が出来る。第1に倫理的な側面から、第2に実際的な側面からである。

 倫理的な側面からの指摘は、簡単に言えば「まっとうな国であれば、国連から信任された人物の主張を雑に扱っていいわけがない」ということである。国連特別報告者は国連の信任を受けた専門家であり、国連を代表してその国を視察した人物である。つまり、特別報告者の発言にはそれ相応の重みがある。尊重すべき声を常識的に尊重することで、国際社会は協調してきたはずだ。自身に都合が悪いからと言って軽視すれば、社会は成り立たない。

 山田太郎はブキッキオ氏について、国連特別報告者の主張は国連の総意ではない、いわば「国連の方から来ました」というものだと矮小化している(例えば動画第543回)。しかし、これも当然のことを言っているだけで、本質的な応答にはなっていない。ブキッキオ氏の主張は国連の総意ではないが、だからといって無視していいものでもない、というだけの話である。

 実際的な側面というのは、もう少し短絡的ながら真に迫る問題だろう。つまり、国連特別報告者の発言を軽視し、本質的な応答を避けることは、巡り巡って表現の自由を危険に晒す行為であるということだ。

 ブキッキオ氏の指摘は総じて、表現の自由と女性の安全や権利との衝突に触れている。そして、少なくともブキッキオ氏は、マンガやアニメのうち特に酷いものについては、表現の自由よりも女性の権利が優先されると考えている。おそらくこれは、強弱の差異はあれど、西欧の先進諸国も同様の考えだろう。

 であれば、マンガやアニメを規制すべきであるという主張は、国際的なプレッシャーとなって日本に襲い掛かるはずだ。このプレッシャーを跳ね返すのに、「その主張には法的拘束力がない」などという小手先の言い訳は役に立たない。プレッシャーに法的拘束力がないことなど、かけている側は百も承知だからだ。

 そして、重要なことに、自民党にはこの国際的なプレッシャーをはねのけるために努力するインセンティブは一切ない。自民党はそもそも、自由や権利などどうでもいいと思っている政党であり(だからこそ批准していない条約が山ほどあるのだ)、関心の大半は自身の権力を維持することである。そのため、国際的なプレッシャーが自身の権力の障壁になると悟れば、早々に規制を進めるだろう。

 自民党の主要な支持層が持つ通俗的な道徳観念に基づけば、マンガやアニメを規制する方が自然であるという点も重要である。統一教会を持ち出すまでもなく、日本の保守層は「なんとなく」性的なものは野放図ではダメだと思っており(その結実が刑法175条であろう)、表現の自由についてそこまでこだわりがないため、支持者の存在は少なくとも表現規制の障害にはならない。どころか、規制するほうが支持者の歓心をかえる可能性すらある。

 このため、表現の自由を守るためには、自民党に「規制したほうがよさそうだ」と思わせるほどの国際的なプレッシャーを与えず、これを解く必要があると言える。この戦略に、「法的拘束力がない」という小手先は何ら役に立たない。

 表現規制することなく規制への圧力を解くには、規制せずとも女性の権利を守ることが出来ると示すほかない。表現規制の理由が女性の権利であるならば、規制せずともこれを守れることを示せば規制を訴える口実を人々は失うはずである。少なくとも、規制への合理的な理由はなくなる。

 しかし、山田太郎はこのための努力をしないばかりか、女性の権利については後退させることに熱心な有様である(詳細は後述する)。これでは、表現規制を訴える外圧はとてもではないが小さくならず、表現の自由を守ることはできないだろう。

 ここに、神話の2つ目の虚構がある。山田太郎は表現の自由を真に守るための努力を怠り、小手先の「論破」という安易な方法に頼り支持者の注目を集めているだけに過ぎない。

 実際には、次以降の記事で書くように、山田太郎はブキッキオ氏の主張に何ひとつ有効な反論が出来ておらず、ブキッキオ氏は全く論破されていないのである。

実は巧妙だったかもしれないフェミニスト議連

 山田太郎が自身の「国連特別報告者論破神話」を過大評価する理由の1つが、特別報告者の勧告に強制力がないことを確かめていなければ表現規制に繋がっていたはずだというものがある。この件で頻繁に引き合いに出されるのは、2021年の戸定梨香問題である。

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