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変わらない自分、変わりゆく自分。

三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。」

新約聖書 ヨハネによる福音書21章17節 (新共同訳)

こんにちは、くどちんです。キリスト教学校で聖書科教員をしている、牧師です。

BTSと出会って、韓国語を勉強し始めました。「好きこそものの上手なれ」と言いますが、上手になってきているかどうかはともかく、楽しみつつ学ぶことが継続できています。リスニング勉強と称してBTSのいろんな曲を聴いているうちに、不思議と聞き取れる単語がちらほら出てきました。

その中でも一番耳に残る単語が、「여전히(ヨジョニ・相変わらず)」という言葉です。

きちんとカウントをとったわけではないので飽くまで私の主観ですが、この単語がよく使われている気がする、それも私が特に敬愛するSUGA氏のラップや歌詞の中に頻出しているという気がして、気に掛かる言葉なのです。

(↑いつもお世話になっている「あみに」さんの日本語訳動画。「여전히」がとりわけ印象的に響く、SUGA氏のソロ名義の一曲です。)

『秋の花』(北村薫 著)という作品の中で、亡くなった友人について語る女子高生に、主人公がこう尋ねる場面がありました。

「ねえ、津田さんは≪きっと≫という言葉が好きだったの」

その人がどんな言葉を好むのか、その人がどんな言葉をよく使うのか。そこにその人らしさが表れて来る。「津田さん」について聞くうち、「津田さん」が「きっと」という言葉をよく使っていた人なのだと気付く主人公。それだけで「津田さん」の人となりがぐっと立体的になる。そんな一場面でした。

そうすると、「여전히(相変わらず)」という言葉をよく使う人はどんな心持ち、どんな姿勢で人生を生きている人なのでしょう。

昔の自分の眼差しを意識しながら、今の自分を見詰める。昔の自分、今の自分、これからの自分。時間の流れの中で、その変遷を切なくも温かく見詰めている。そんな人ではないか、という気がしました。

昔の自分に比べて今の自分が「変わっていること」は喜ばしいのでしょうか。「相変わらず」という言葉には、「変われなかった自分」へのシニカルな笑みが滲んでいる気もします。でもそこには「変わらずにいられたのだ」という、誇らしさも感じられるように思います。

皆さんは「変わりたい」ですか? それとも「変わらずにいたい」ですか?

変えたいところもあれば、変わりたくない、変えたくないところもあるでしょう。変えたいのに変わらなくてやきもきしたり、変えたくなかったのに変わらざるを得なくて悲しくなったりすることもあるでしょう。

変わらない自分への誇り。変わってしまった自分への寂しさ。変われた自分への自信。変われない自分への歯痒さ。変わりたいという自分への期待。

「変われることが素晴らしい」「変わらないことが好ましい」と、一概に言い切ることはできず、変わらない自分も変わっていく自分も清濁併せ吞むようにして抱えながら歩むのが、私たちの人生の営みかもしれません。

聖書は私たちに「変われ」と言っているのでしょうか。それても「変わらずにいなさい」と言っているのでしょうか。

冒頭の聖句は、復活したイエスが一番弟子ペトロ(ここでは「シモン」と本名で呼び掛けられています。ペトロというのはいわばニックネームであり通称です)に語り掛ける場面です。

イエスの一番弟子として「昔の俺とは違うんだ!」と誇りを持っていたかもしれないペトロは、十字架の直前、逮捕されるイエスを前に恐れて逃げ出してしまいます。その挫折の経験はペトロにとって、自分の中の「変えられない、克服できない弱さ」として自覚されたかもしれません。

そんなペトロが復活のイエスに出会って、「私を愛しているか。もしそうなら、私の羊を飼いなさい」と三度問い質されます。

「三度」というのは聖書の中で象徴的に用いられることの多い数字です。恐らく実際に3回というよりは、「決定的に」という意味合いを込めて描かれているのでしょう。

一度は逃げ出したお前だけれど、本当に私を愛しているか。我が身かわいさに困難から逃げ出すような、お前の「変えられない弱さ」を私は知っているよ。でも、そんな弱さを抱えながらも私を愛するようになった、その「変化」だけは確かなものにできるか。ならば私を愛するその愛によって、お前はお前の「変えられない弱さ」をきっと超えていくことができるよ。

イエスはペトロの「変わらない部分」を深い愛をもって受け入れつつ、「変われる」という可能性にも賭けてくれている。そんな風に思うのです。

「相変わらず、俺は弱いままだ。でもその弱さをイエスさまが受け止めてくださったから、俺はきっと変わっていけると思っているよ」

復活のイエスと出会ったペトロの、そんな独り言が聞こえてくるような気がします。

変われない自分も、変わっていく自分も、共に深く受け入れつつ、変わらない愛を、変わりゆく希望を、志していきたいと願います。





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