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目と目で通じ合えると、良いよね。

イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」すると彼は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。

新約聖書 マルコによる福音書10章17-22節 (新共同訳)

こんにちは、くどちんです。キリスト教学校で聖書科教員をしている、牧師です。

今日は、アクティブでポジティブでマーベラスな友人「はたぼう」の音頭で始まった「リモート合唱部」の練習がありました。Zoomで繋がりつつ、YAMAHAの「SYNCROOM」というアプリを使って歌声を合わせています。

(はたぼうのブログもお人柄が表れていて面白いのと、何よりそのお仕事ぶりが素敵ですので、特に「何か始めたい」と思っておられる女性の方には読んでみていただきたいです(^^))

今回の練習曲は「すべての山に登れ」。ご存じ「サウンドオブミュージック」の中の一曲です。一部難しいところもありましたが、練習を進めるうちに「思いのほかええ感じでハモれてるんちゃう?!」という感じになってきたので、「最後の一回通して、今度はできるだけ画面越しに目を合わせて歌うようにしよう! それが合唱の醍醐味やしね(`・ω・´)」とクドウから提案。すると「そうなん?! それが合唱の醍醐味なん?!」という反応が返ってきたので、「え、だって目を合わせて息を合わせるあの感じがええんやん!」と語り合う流れになりました。

ほらこれ見てよ。0:40辺りのところの……SUGA氏とJ-HOPE氏の絡みとか良いですよね……。こんな風に「推しグループがパフォーマンス中にメンバー同士目配せしてたら、グッとくるやん……?」とたとえを挙げると、皆さんそれぞれ自分の「沼」に置き換えて「ああ……分かった……!」と納得してくださいました(笑) で、「それを私たちもやるねんで!」と練習のまとめに入る、と。ええ人たちと歌えて幸せやわ~。

オンラインによる「リモート○○」が盛んな世の中になって早一年ですが、たとえ画面越しであっても「目が合う」「目を見る」というのは大事ですね。パソコンのカメラを使っていると、ちょっと下からとか上からとか、目線からずれた画角になりがちです。それを解消し、リモートでもより「目を合わせて話す感覚」を味わえるように、ディスプレイの真ん中にカメラを埋め込むような試みがある……という話を最近何かで読みました。それくらい「互いを見詰める眼差し」って、私たちにとって意味のあるものなのでしょうね。

今回冒頭に挙げた聖句は、「永遠の命」に至る道を尋ねた人物に対し、イエスが「慈しんで」見詰めつつ語りかけられる場面です。

「永遠の命」がピンとこないという方は、「救い」と置き換えていただいて良いと思います。救われたい、神に祝福される者でありたい。その志は良いのですが、彼はそのために「あなたの持っているものを人々と分かち合いなさい」と言われると、「自分の財産を手放さなければならない」ということに悲しんで、がっくりしてイエスのもとから立ち去ってしまいます。

「自分の財産を全て手放せなんて、そんな無茶な」と思うのもよく分かります。でもここでイエスは文字通り「全てを捨てろ」と仰ったのではなく、「自分のためだけに生きるのをやめてごらん」と促されたのだろうと私は思います。彼は自分の救いだけを求めてイエスに質問を投げかけ、自分の救いが確かなものになることだけを求めて「掟はずっと守っているが、それで大丈夫なのか」とイエスに念押しをしているからです。

「私」だけに囚われる生き方から解放され、全財産をなげうつ「かのように」隣人のために生きること、そこに救いがある。イエスが仰りたかったのは、そういうことではないでしょうか。

肩を落として立ち去る彼を、イエスは切なくも温かい「慈しみ」の眼差しで見詰め続けていたことでしょう。彼が自分自身を顧みない限り、イエスと「目が合う」ことはありません。

私たちもきっと同じだろうと思います。自分にばかり目を向けて、あれが足りない、これがダメだとつい俯きがちになる私たち。けれど、イエスからの眼差しは注がれ続けているのです。そうであるならば、私たちが顔を上げ天を仰ぐ時、きっとイエスと「目が合う」ということが叶うのでしょう。

ああ主のひとみ、まなざしよ、
きよきみまえを 去りゆきし
富める若人 見つめつつ、
なげくはたれぞ、主ならずや

(『讃美歌21』197番 日本キリスト教団出版局)

人と人はもちろん、神と人とも目を合わせ、息を合わせ、互いに心通わせつつ歩めると良いな、と思います。


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