建築家小笠原祥光の仕事⑤ -地域のお宝さがし-87

■大阪北港株式会社経営の貸家■
 大阪北港株式会社(以下、北港住宅)は、「大阪築港を北方へ拡張し、正蓮寺川沿岸一帯の所有地の開発」を目的として、大正8年(1919)に設立されました(注1)。
 小笠原祥光は、同社が開発した地区のうち、「大阪市内に於て空気の最も清鮮なる」(注2)酉島町・春日出町(約3万坪)に、道路・下水を完備し、水道・電灯・ガスを供給し、「市電の便利を有する市内稀なる田園都市的住宅地」を形成し、大正10年から昭和3年(1928)まで継続的に貸家(約500戸)や商店などの設計・監督を行いました。此花区と酉島・春日出町の概略の位置を図1に示します(注3)。

図1 此花区

注1)『住友ノ事業』p62(昭和9年4月)。旧字は常用漢字に、カタカナ表              記はひらがなとし、句点をつけた。昭和2年に住友合資会社の連系会            社となりました。
注2)小笠原鈅「大阪北港株式会社経営の住宅に就いて」(『建築と社会』
        大正11年7月号)。同「貸家建築の計画に就いて」(『建築と社会』            昭和4年8月号)。貸家に関する記述は、断らない限り、両論文によ              る。前者論文の抜き刷りに、「大阪市西区酉島町九十番地/小笠原建            築事務所」のスタンプが押印されており、小笠原建築事務所を開設し          た自宅は、酉島住宅内にあったことが窺われる。
注3)ウィキペディア「此花区」より転載。加筆。

■酉島・春日出住宅(北港住宅)の位置■
 北港住宅の位置は、図2の通りですが、北港大橋・住友病院から現在の位置が推定できます(注4、図3)。

図2 北港住宅の位置
図3 酉島・春日出住宅の現在位置(推定)

注4)住友病院は、大正10年此花区恩貴島北之町194(現酉島1-2)に開設さ          れた(ウィキペディア「住友病院」)。図3はグーグルマップより転            載・加筆。現在は住友電工の社宅になっている。

●設計方針●
 北港住宅が貸家経営に参入した大正10年頃は、大阪市内では貸家が払底していました。その理由の1つに、第1次世界大戦(1918年[大正7]終了)を契機とする大阪の発展が掲げられます。これにより、市内では街路の整備、住宅不足などの問題が噴出しました。そこで同社は、中産階級のサラリーマンを対象に、①家賃が安価で、②需要が高い「幾分改良せられた住宅」の計画・設計を小笠原に要望します。
 小笠原は、①・②の要望を実現させるため、建設費の抑制を前提とした設計方針を、以下に示します。
①低価格の家賃 小笠原は、外観を西洋風の大壁仕上げにした2戸建て住宅を採用します(注5)。この形式は、
・筋違いがしっかり設けられ、耐震的にも有利になる。
・土壁の界壁を土台の上端から屋根まで設け、生活音(話声・物音など)
の遮音、防火や保温の効果を向上させる。
実現された住宅(図4)を見ると、中央が境の2戸建てです。左右対称の外観は安定感があり、変化のある屋根の構成など、西洋風が演出されています。

図4 C号住宅外観

注5)4戸建て長屋も設計されているが、ここでは2戸建て住宅について
        紹介する。
        ②幾分改良された住宅 改良された住宅については、以下のような方          針を定めています。
        家屋配置について
       ・道路側に、従来のような門・塀などを設けず、前庭を作って樹木を              植えて開放的にする。
       ・裏側は、各戸を板塀で仕切り、窓からの見通しをさけるために樹木              を植えてプライバシーを確保する。
  縁側・雨戸を廃止
  ・縁側がないと雨しぶきが防げないとの懸念は、技術的に解決できる。
  ・雨戸がないため、夜光や直射日光の防止のため、カーテンを採用す             る。
  各室に窓を設ける
  ・表通りを開放的にしたため、家内を見透かされぬようにする。 
  ・雨戸を廃止したため、戸締りが便利になるようにする。
  ・冬期の暖房効果やプライバシー、防犯効果を改善する。
  ・窓の位置は、一般的な内法高さである5.7尺(注6)に合わせ、従来の
  施工法で対応できるようにする。
  ・窓下の腰壁に、掃き出し小窓を設け、掃除の際に塵を掃き出す。
  通風・換気など
  ・通風は、掃き出し小窓が夏期には通風の補助、冬期に各室を閉鎖した           際の吸気口になる。
  ・換気は、各室・廊下などの天井下の小壁に欄間小窓を設け、階段室の           天井にも空気抜きを設け、小屋裏の換気を考慮する。
      ・外壁に面する窓や入口の建具はガラス戸にし、戸当たり部分に桟木を           打って冬期の隙間風を防ぎ、室内の保温効果を促す。
      ・台所には、セメント製の流しを備え、竈(2口)の1つは薪焚き用、           他はガス用とする。
      などのように、入居者の住環境に配慮しています。さらに、北港住宅で        は、居住者が直ちに入居できるように、畳・建具一式、押入の中棚、台        所の棚までも造り付け、その負担を軽減しています。
      大正期は、市民層としてのサラリーマンが増え、若い世代に洋風の住       生活が定着し、プライバシーが守られ、オシャレでハイカラな住宅が建       てられるようになります。小笠原が設計方針とした、縁側・雨戸の廃            止、ガラス戸の採用については、当時の住宅で指摘されています(注          7)。このような傾向を熟知していた小笠原は、会社の要望を考慮し            て、貸家とは言いながら、急勾配のオシャレな西洋風外観の家並みを形        成するとともに、合理的で使い勝手の良い住宅を構想したのです。その        具体的な内容を、簡単に見てみましょう。
 
注6)内法高さは5.7尺、高級建築は5.8尺に、古くから規格が統一されてい            る。渋谷五郎他『新版日本建築上巻』(学芸出版社、1979年)
注7)久保加津代『女性雑誌に住まいづくりを学ぶ-大正デモクラシー期を中       心に-』p74(ドメス出版、2002年)

■多彩な平面・オシャレな外観■
 上記の設計方針に基づき、建坪8~9坪から12~13坪の2階建て住宅(延坪15~20坪)の平面を10種類設計し(A~J号)、それらを仕上げの程度により、1級貸家(A~D号)、2級貸家(E~F号)、3級貸家(G~H号)とし、4級貸家(I~J号)は4戸建て長屋としました。
 平面は、居室(6畳・3畳・4.5畳)を上下階に配し、玄関に続いて廊下を設け、どの室からも、他室を通らず便所や各室へ行けるように動線が配慮されています。そして、仕上げ程度1級の貸家には、簡単な洋間や洗面所・浴室などが設けられていました。
 当時の中流住宅の平均的規模が約30坪(注8)であることを考慮すると、北港住宅の多彩な平面と規模(延坪15~20坪)は、多様な借り主に、オシャレな外観の機能的な貸家を提供しました。

注8)前掲注7)『女性雑誌に住まいづくりを学ぶ』p79
  ●1級貸家(A号住宅)●

図5 A号住宅平面
図6 A号住宅外観

 A号住宅の平面は、両端部の「玄関」に続いて、廊下・階段下を設け、右側の「七帖」は入口のドアから洋間と考えられ、「四帖半」と連続しています。洋間は接客に用いられ、台所に接する「四帖半」は茶の間と思われます。廊下の奥には、便所、洗面・浴室などが配されています。上階は、「六帖」・「三帖」の続き間、「二帖」の間に廊下が設けられ、各室の独立姓が確保され、各室には押入などの収納が設けられています(図5)。
 外観は、中央部の切り妻屋根妻側、両側は招き屋根の平側で構成されています(図6)。

●2級貸家(F号住宅)●

図7 F号住宅平面
図8 F号住宅外観

 F号住宅の平面は、両端部の「二帖」(玄関)に面して階段・便所が配され、右側の「六帖」「四帖半」が続き間です。廊下が見当たりませんが、奥の「四帖半」から便所へは直接行けます。またこの室は、「台所」とも繋がっており、茶の間として用いられたと思われます。
上階上廊下によって、2室の独立姓が確保され、「六帖」には「床」が設えられていることから、客間としても用いられたと考えられます。室の規模が小さくなっても、各室に押入などが設けられており、使い勝手は良かったと思われます(図7)。
 外観は、寄棟屋根、両端部は片流れ屋根で構成されています(図8)。

●3級貸家(H号住宅)●

図9 H号住宅平面
図10 H号住宅外観

 H号住宅の平面は、前部に突出した「入口」に面する「三帖」と「六帖」が続き間です。「六帖」と台所は廊下で隔てられていますが、茶の間と思われます。一方、「三帖」は廊下に接するもの、階段もあることから、独立姓が低いと思われます。上階は、2室とも独立姓が保たれ、「六帖」には「床」が設えられ、客間としても用いられたと思われます(図9)。
 外観は、2階の寄棟屋根の平側壁面の一部を前方へ出すことで、外観に変化が付けられています(図10)。
 最後に、北港住宅の商店・浴場の例を掲げます(図11)。

図11 北港住宅商店・浴場

 小笠原は、姉川地震の視察によって得たボルトや筋違を多用した地震対策、火災防止のために軒裏を鉄網モルタルで被覆するなどの改良方法を、『現代的中流住宅建築構造改良案』(大正8年3月)で提示していますが、このような地道な実践が、これまでの貸家に存在した多くの問題点を確認し、その改良・解決に役だったものと思われます。

■閑話休題■
 我が国では、明治40年(1907)にハワードの『田園都市』が刊行され、その理念が紹介されており、同43年に阪急電鉄が池田の室町を開発して以降、電鉄会社による「田園都市」が開発されています。小笠原が北港住宅の計画・設計において、「田園都市」を意識し、市電による交通が便利で、市内でも稀な田園都市的住宅地の開発・形成をめざしたことは、容易に想像されます。

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