植松清志

大阪市立大学大学院博士課程修了。学術博士、一級建築士。大阪狭山市文化財保護審議会副会長…

植松清志

大阪市立大学大学院博士課程修了。学術博士、一級建築士。大阪狭山市文化財保護審議会副会長。近世・近代の大阪の建築や都市史の研究のほか、民家調査や登録文化財申請などに従事。編共著『近世大坂における蔵屋敷の建築史的研究』、『平野区誌』、『図解建築用語辞典』、高校教科書『建築計画』など。

最近の記事

エジプトの建築-ピラミッド①-地域のお宝さがし-118

 建築の歴史に興味があると、国内だけでなく海外の建築物もみたいと思うようになります。これまでに、何度かヨーロッパなどを訪れる機会がありましたが、「見る!」・「感じる!」ことで、その地の建築物に対する理解が深まるように思います。そんな、筆者が「見た!」建築物やまちなどを、時に応じて紹介します。 ■ピラミッドの発展■  エジプトの宗教は、霊魂の不滅と来世の生活を信じ、国王と神は同格と考えるもので、ピラミッドや神殿などの巨大な建築物が建造されました。ピラミッドや神殿はエジプト建築

    • 建築家本間乙彦の仕事⑤-地域のお宝さがし-117

      今回は、建築家本間乙彦の教員の退職時期と設計活動をみます。 ■都島工業学校退職■  在阪時代の「公式の略歴」(第115回表1-C)によると、本間は昭和4(1929)年まで、大阪市立都島工業学校(以下、都工)建築科教諭として勤務、同年から建築設計事務所(以下、事務所)経営とありますが、学年暦から、事務所の経営は昭和4年4月以降と考えられます。  本間の事務所設立の動機は、阪口芳三郎(注1)と、「大同ビルに工材社を事務所として建築設計の業務」を始めたいといもうので、本間が、「

      • 建築家本間乙彦の仕事④-地域のお宝さがし-116

        今回は、建築家本間乙彦の教員採用や勤務の状況などをみていきます。 ■都島工業学校建築科教諭■(大正13年~昭和4年)  本間は、「公式の略歴」(第113回表1)では、大正13年(1924)3月(注1)から昭和4年(1929)までの5年間、「大阪市立都島工業学校建築科教諭」として勤務しています。 注1)『創立百周年記念都工のあゆみ』(大阪市立都島工業高校、2007年)。 退任年月は不記載であるが、学年暦より昭和4年3月と考えられる。図

        • 建築家本間乙彦の仕事③-地域のお宝さがし-115

          今回からは、本間の在阪時代の経歴(仕事)などをみていきます。 ■くろふね図案店を経営するが・・■(大正9年[1920]~12年)  まず、本間の在阪時代の「公式の略歴」(第113回表1)を掲げます。 ●来阪時期とくろふね図案店●  渋谷五郎は、本間が、「昨年九月の大震災に遇つて、今大阪に来て居て・・自分で図案して自分で刺繍した紙入を同窓知誼に買つてもらひたいとまわつて居る」という話を、西村辰次郎から聞いています(注1)。この話の前半から本間の来阪時期(大正12年9月以降)

        エジプトの建築-ピラミッド①-地域のお宝さがし-118

          建築家本間乙彦の仕事②-地域のお宝さがし-114

           前回は、友人の回想から、本間の東京高工入学以前と在学中の様相を窺うことができ、思わず、ほくそ笑んでしまいました。今回は、関根要太郎の回想から、東京高工卒業後の本間の経歴(仕事)をみてみましょう。 ■夜店を開業するが・・■(大正3年(1914)~5年)  まず、本間の「公式の略歴」(第113回表1)から、在京時代を掲げます。  既述のように、卒業月は3月ではなく7月です。本間は卒業後、就職せずに、銀座で夜店を開きます。関根によると、「さほど就職難の時代でない時に、・・夜店の

          建築家本間乙彦の仕事②-地域のお宝さがし-114

          建築家本間乙彦の仕事①-地域のお宝さがし-113

           建築家本間乙彦については、まち歩きマップ「大阪都心の社寺めぐり」(注1)で、肖像・略歴・作品の一部を紹介し、第3回でも少しふれました。本間は、雑誌『住宅』の編集などで知られていますが、早逝されたため不明な点が多く、改めて本間の経歴や活動について紹介します。 注1)企画編集:植松建築事務所 ■本間乙彦の経歴■  本間乙彦(図1、以下、本間)は、明治25年(1892)2月24日、本間貞観の五男(「弟彦」おとひこ)として、兵庫県龍野町に出生しました。  本間の略歴は、追悼文

          建築家本間乙彦の仕事①-地域のお宝さがし-113

          工高生の作品⑥-地域のお宝さがし-112

          ■工高生の作品-今宮工高Ⅳ-■  勤務校の文化祭ではクラス展示があり、1年生では、住宅の模型(1/10)を作成しました(図1~3)。図面作成から模型の完成まで、クラスの生徒が協力・努力しました。制作は実習室で行いましたが、完成したら大きすぎて出すことができず、出入口の建具(2枚)を外して出したことを覚えています。 ■文化祭展示■ ●木造2階建て住宅模型●  多くの生徒が毎日残って作業をしました。顔はカットしていますが、ワイワイと賑やかに作業している様子が分かると思います。

          工高生の作品⑥-地域のお宝さがし-112

          工高生の作品⑤-地域のお宝さがし-111

          ■工高生の作品-今宮工高Ⅲ-■ ■建築史■  建築科のカリキュラムには、「建築史」という科目(分野)があります。日本・西洋・近代における建築の歴史を学ぶもので、大学の建築学科にも設けられています。ただし、現在の工高では、『建築計画』の中の「建築の移り変わり」という章にまとめられています(注1)。  筆者が工高で『建築史』を担当した当時は、毎回50枚程度のスライドを見せて、解説をしていました。ここでも、建築物を描かせる課題を出し、描く建築物も仕上げ(着色・単色など)も自由としま

          工高生の作品⑤-地域のお宝さがし-111

          工高生の作品④-地域のお宝さがし-110

          ■工高生の作品-今宮工高Ⅱ-■  新年度の2年・3年生の設計課題には、コンペの課題を取り上げました。とまどい、苦労しながら、生徒たちは多様な提案をしてくれました。 ■2年生■ ●併用住宅●  2年生の当初は、授業で鉄筋コンクリート構造を習っていないし、図面も描いていませんので、構造的な制約は気にせず計画を進め、平面や外観の形態がある程度できてきた段階で、壁厚や柱の配置、1室の規模などをアドバイスし、再考を繰り返します。生徒は、設計を進めながら、並行して、図面の枚数に応じた図

          工高生の作品④-地域のお宝さがし-110

          工高生の作品③-地域のお宝さがし-109

          ■工高生の作品-今宮工高Ⅰ-■  今回から、筆者が以前に勤務した建築科の生徒作品を紹介します。CADが無い時代の手描き図面です。 建築科の1年生の「製図」は、線・文字などの練習に始まり、次いで、木造住宅の図面模写(コピー)に取り組みます。生徒は、平面図を描くことで住宅の間取りを把握し、次に立面図に取り組む場合が多いのですが、筆者が工高時代、立面図の作図に際し、高さ関係の寸法が分からず苦労した経験から、平面図と高さ関係を把握しやすいように、先に断面図に取り組ませました。  建築

          工高生の作品③-地域のお宝さがし-109

          工高生の作品②-地域のお宝さがし-108

          ■工高生の作品-工芸高校Ⅱ-■  前回は、暑中見舞いを主に紹介しましたが、今回は暑中見舞いと年賀状を紹介します。内容は、日本建築史に関するもの、その他です。 ●絵図●(図1)  図1の上部には、平安時代の貴族の住宅である「寝殿造」が描かれています。「寝殿造」では、入口上部の「御簾」(みす)、左側の「几帳」(きちょう)、右側の「屏風」などで空間が仕切られていました。図2を参考にしたと思われますが、雰囲気がよく出ています。  図1の下部は、工事現場における大工の作業が描かれ

          工高生の作品②-地域のお宝さがし-108

          工高生の作品①-地域のお宝さがし-107

          ■工高生の作品-工芸高校Ⅰ-■  最近、学生時代の友人のYouTube動画をよく見ます。彼は、早い時期に建築から画家に転身し、現在も精力的に制作するかたわら、動画で水彩画の着色やペン画スケッチなどの技法を紹介しています(注1)。そんな関係からか、絵画の描き方やデザインに関する動画が、集まってくるようになり、その中で、「視るデッサン」(3年前、大阪府立工芸高校)が目にとまりました。  以前(と言っても昔話になりますが)、大阪市立工芸高校の建築科(現:大阪府立工芸高校 建築デザイ

          工高生の作品①-地域のお宝さがし-107

          建築家竹内綠の仕事④-地域のお宝さがし-106

          ■竹内綠の論考■  竹内建築事務所員中村義雄が、自身の事務所開設と『住』発刊の許諾を得て、竹内事務所での勤務を継続したことは紹介しました(注1)。ここでは、竹内が『住』に寄稿した論考を紹介するまえに、『住』についてもう少しみておきます。 ●建築雑誌『住』●  『住』(図1、注2)の第1号(大正15年4月)をみると、「住宅習作」の項目があり、中村が設計した2階建て住宅の平面図が掲げられています。この項目には、後に、「住宅創造」や「住宅デッサン」なども加わり、多彩な平面や立面図

          建築家竹内綠の仕事④-地域のお宝さがし-106

          建築家竹内緑の仕事③-地域のお宝さがし-105

          今回は、建築家竹内綠が設計した作品を紹介します。 ■三十四銀行■  三十四銀行は、明治11年(1878)4月、第三十四国立銀行として開業しますが、同30年9月、株式会社三十四銀行となり、大阪高麗橋に本店が置かれました。その後、いくつかの銀行と合併を繰り返し、昭和8年(1933)12月、鴻池・山口銀行と合併して三和銀行(現三菱UFJ銀行)となります(注1)。ここでは、同銀行の難波支店と谷町支店を紹介します。 注1)「三十四銀行」(Wikipedia)、「三菱UFJ銀行の沿革

          建築家竹内緑の仕事③-地域のお宝さがし-105

          建築家竹内緑の仕事②-地域のお宝さがし-104

          ■尼崎紡績での仕事■  竹内は、第5回内国勧業博覧会終了後、再び茂の紹介で、尼崎紡績に入社します。尼紡は、大正6年(1917)に摂津紡績と合併し、大日本紡績(現ユニチカ)になります。竹内は、尼紡(大日紡)に19年間勤務し、菊池恭三社長、田代重右衛門重役の信任が厚かったそうです。仕事は既存工場の増改築が多かったようですが、具体的に杭瀬工場(大正6年5月竣工)と中国青島の工場をお聞きしたので、これらが竹内の新築設計の仕事と思われます(注1)。  大正3年の日独戦に勝利したわが国は

          建築家竹内緑の仕事②-地域のお宝さがし-104

          建築家竹内綠の仕事①-地域のお宝さがし-103

          ■建築家竹内綠の経歴■  建築家 竹内綠(図1)については、第10回(大谷仏教会館)で紹介しましたが、ここでは、他の仕事も含めて、再度紹介します。  竹内綠について調べ始め、名簿で、「竹内綠 攻玉 (勤務先空欄)尼ヶ崎市別所村(以下略)」を確認したとき(注1)、名前の「綠」は「禄」の誤植でないかと思いました。というのも、大正時代に岩元禄(ろく)という建築家がいたこと、「ミドリ」というハイカラな名前に戸惑いを感じたからです。なお、出身校の攻玉は、攻玉社工学校とありました(後述

          建築家竹内綠の仕事①-地域のお宝さがし-103