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異形の匣庭 第二部⑪-3【囲われた火種】

 夜の8時を回り商店の殆どがシャッターを下ろし、街灯だけが等間隔に道路を照らしていた。観光客も地元の人らしき人も数える程しかおらず、勢溜(せいだまり)から宇迦橋にかけてゆっくりと歩き、出雲大社前駅を目指す。路地裏を覗けばいくつか灯りが灯っているけれど、寝台列車が出る出雲市駅まで行かないとそれらしい飲食店は見つからないだろう。列車の時間は勿論だが、そもそも電車の時間もかなりぎりぎりだ。もし逃そうものなら1時間後に来る最終電車に乗るか2時間かけて歩いて向かわなければならないし、飲食店どころかホテルを取ったりと面倒な事になる。
 怪我のせいで走れないが気持ちだけは出雲大社前駅へ急いだ。
 結局ちゃんとした島根の郷土料理も観光も堪能出来なかったのは心残りだけれど、母さんを知る目的は果たされた訳で。残すはノートを写すだけ……
「あ……ノートってでも……どうなるんだろ?」
 病室で鞄を渡されて何の確認もせずに出てきてしまい、しかもあのノートは付喪神に変身してしまう。その対策も何も聞いていない。もしかしたら鞄の中で目をギョロギョロと動かし、僕の様子を窺っているかもしれない。
 どうしたものかと中身を検めようと立ち止まり、鞄の紐を緩めた時だった。
「痛い!」
 大社前駅手前で右に曲がる方の小道から、誰か女性の叫ぶ声が聞こえてきた。その声の主は誰かと揉めているのか荒ぶる男の声が重なって聞こえ、付近に人影が無いのも相まって通りまで鮮明に会話の内容が筒抜けだった。
「静かにしろガキが! お前がそんな態度ばっかり取るから出が悪くなんだよ! いくら負けたと思ってんだ! 今日もお前の飯無えからな!」
「なんで!? 私関係ないじゃん!」
「うっせえな! あのアマに似やがって! そんなに飯が食いたかったら働いて稼げこの愚図が! 誰が育ててやってると思ってんだ!? ああ!?」 
 察するに親子の喧嘩の様だが、圧倒的に父親が理不尽な事を言っているのは明らかだった。道の幅はそれ程広くなく、速足で進めばものの数秒で通り過ぎる事が出来るだろう。
 地面に顔を向け歩幅を大きくしてそそくさと横切っていく。
「きゃっ!」
 と短い叫びと同時にガラガラと崩れる音が路地に響いた。
 僕は思わず立ち止まってしまい、更にその音の方向にほんの少し顔を向けてしまった。結果、視界の端でこちらを見て驚く女の子と目が合った。
「あ……」
 鳴海だった。誰かに見られた、ではなく、明らかに僕だと認識した顔をした様に思う。だからだろう。
 ほんの一瞬、痛みではなく顔を顰めたのは。
「おい……何見てんだ? 見世物じゃねえんだぞ」
 僕の存在に気付いた鳴海の父親(すぐに名前が雄三だと知るが)が、鳴海に暴力を振るうのを止めてこちらにじりじりと歩み寄って来る。目が血走り顔も赤く、若干千鳥足だ。まず間違いなく酒を飲んでいる。夏とは言えどよれよれ過ぎる白シャツ、所々擦り切れた半ズボンにトイレ用のスリッパ。だらしなく伸びた無精髭は街灯に照らされて濡れたように照り返している。いや、実際に濡れているのかもしれない。
 動けずしどろもどろする僕に苛立ちを隠さない雄三は「なんらてめえもか、クッ……ソガキが」と呂律が回らなくなりつつあり、それは鳴海への暴力と興奮により更にアルコールが巡ったからでもあった。そのアルコールのせいもあるのか元々の性格か知らないが、兎に角何かが気に喰わなかった様子を隠さず、中身を溢しながら手に持ったビール瓶をふらふらと掲げ僕目掛けて振り下ろした。瓶は手前10センチで空を切り、手からすり抜けて父親の後方の地面に叩きつけられ砕け散り、音を立てながら扇状に破片が飛散していく。
 流石にこれだけの騒ぎを起こしていて誰も来ないという事は無く、道の奥やまだ店舗に残っていたらしい店員がちらほらと顔を出し始めた。
 しかし、雄三は野次馬が集まりだしたのに気付いていないのか、僕の胸倉を掴み右頬を殴り付けた。困惑と鈍痛が頭を揺らし、3度目の痛みが訪れる前に、酒屋から出て来た主人らしき人物が雄三を背中から羽交い絞めにする。何か喚いているが良く聴き取れない。恐らくは「離せ」とか「くそが」的な内容を言っているのだろう。それでも殴り続けようとする雄三の横から鳴海が体当たりし、店主ごと地面に倒れこんで僕を掴んでいた手が離れた。僕の朦朧とする頭では何が起きているのか理解出来ず、受け身の一つも取れずに硬い地面とぶつかり、殴られたのとは逆サイドにも痛みが走った。それが鈍痛ではなくざらついた鋭い痛みだったからか、多少思考が戻ってきたように思ったがそんな事はなく、地面に伏せる鳴海が「!!!」と何か叫んでいるのに口の動きしか分からない。
「え? え?」
 と、理解出来ていない様子を見せると、鳴海は大きく舌打ちして立ち上がり、僕の手を取ってどこかに向けて走り始めた。
「いやっ、ちょっと……えっな、鳴海!」
「うるさい! いいから着いてきて!」
 背後から数人の大人が叫んでいる。それを無視して突き進む鳴海に、転びそうになりながら同じく静止してもらおうと再度口を開き、止めた。
 そして皺だらけの制服と真新しく出来た痣が残る横顔が白く光る街灯に照らし出し、夜の闇がそれら全てを完全に飲み込んでしまうまで僕らは走り続けた。

 どれくらい走っただろうか。幾度も角を曲がり、看板と街灯が続けて減り、民家すらもまばらになって錆びついたフェンスが見えた所で鳴海が止まった。
 息つく間もなく走り続けて二人共肩で荒く呼吸していて、夜になっても収まらない暑さのせいで汗が滝の様に流れていく。呼吸を整える最中にここがどこなのか、あの喧嘩がなんなのかを聞こうとしたが
「いっ……」
 疲れと思い出したかのように襲って来た腹部の痛みとで、とうとう僕はその場にへたり込んでしまった。鳴海が
「ちょっ……と。座んない、でよ」
 と、呼吸の合間に叱責するけれどそれに応える余裕も無い。奔る鼓動に合わせて傷が痛むせいで、波が来ずずっとピークがあるような感じだ。痛み止めが効いていない訳では無いけれど、あんな怪我をしたすぐ後に全力疾走すべきではなかった。
「早く立って」
 鳴海が僕の腕を掴み立ち上がらせようとしてくるがそれどころではないし、手を振り払い背中を指差してから押さえるのが精一杯だ。
「…………」
 ほんの一瞬考える素振りを見せ、鳴海は僕が着ているシャツを思い切り捲り上げた。痛々しく巻かれた包帯が姿を見せるとそれを凝視し、汗ばみ濡れて気持ち悪いはずなのにそっと触れた。
「な……」
「いいから」
 何を思っているのだろう。顔も見えなければ心情など微塵も分からない。父親に暴力を受けその場に居た誰に助けを求めるでも無く逃げ、今は何も言わずに傷に手を当てている。初めて会った時から彼女は言いたい事は言い、僕を含めて嫌な物は避けるタイプかと思っていた。
 暫くそうしていたかと思うと、僕の状態が少し快調したのを見計らい肩を貸す素振りを見せた。そういう気遣いをされるのには驚いたが、素直に受け取っておかないと後が怖い気もするし、何よりここから動けなさそうだ。
 路地の最奥まで進むと、明らかに誰も使っていない古びた小さい温室の様な物が現れた。長年の雨風で剥き出しのステンレスは赤黒く錆びつき、天窓を覗き全面がこれまた錆びたトタンで覆われている。本来は天窓以外もガラスだったのだと思われるが、他が割れた結果、天窓風の見た目に落ち着いたのだろう。扉は鎖と南京錠がかけられているものの、誰かが勝手に入らない様にする為だけのフェイクだった。
 ふと振り返り周囲を見渡したが、綺麗にコンクリの壁と草木に覆われていて、外からは殆ど見えない位置にあるのが分かった。隠れるには良い場所だった。
 鍵が掛からないようふわりと刺された南京錠を外し、慣れた手つきで鎖を外して扉を開ける。それらを手に持ち反対の手で僕を支えながら中に入った。
 小屋の中は物で溢れていた。あの玩具屋敷と比べれば、量も違うし整理整頓が行き届いているしで完全に別物だけれど。種類ごとに山積みにされたそれらの中心には、どこで拾ったか(あるいはあの玩具屋敷か)簡素な木製のテーブルと椅子があり、右に視線を写せば子供用の小さい座椅子が置かれている。
「そっち使って」
 と促されたのは小さい座椅子の方だった。背もたれにバッグを引っ掛け、体育座りの要領で座り込む。中学生にしては丁度良いサイズなのが何とも言えない気持ちになるが、すぐに疲れと痛みと安堵感とで吹き飛んで行った。
 鳴海は物の奥底に隠していたらしいクーラーボックスから水のペットボトルを取り出し、一気に半分程飲み干して僕に渡した。
「…………」
「いやいやいや。そういうのいいから。何? 間接キスとか思ってんの?」
「えっ、あっ、いや」
 何故そういう所だけは無駄に鋭いのか。
「いらないなら仕舞うからどっちか早くして」
「あ、じゃあ……頂きます」
 一応鳴海に背を向けて水を飲む……が、相当喉が渇いていたのか、気恥ずかしさも忘れ残り半分を一気に飲み干してしまった。
「ふぅー……あ、ありがとう」
「ん。それ貸して」
 言われペットボトルを渡すと、ささっと潰してゴミ箱に捨てた。
 鳴海はそれから椅子に座り、大きく溜息を吐いた。
「あんた顔」
「え?」
「だから、顔。大丈夫かって聞いてんの」
「ああ、まあ……ちょっと痛いけど」
「そっか………………………………ごめん」
「いや、別に鳴海が謝る必要はない、よ」
「だとしてもさ……くそ……あいつまじで早くぶっ殺してやりたい」
「そ……」
「ん?」
「いや、何でもない」
 思わず口に出そうになった言葉を押し込み、天窓から空を見上げた。細く伸びた下弦の月が雲を垂らし、金色の光を鳴海に向けて流し込んでいた。

 照らし出された頬を紫に上塗る痣だけは、どうやら間違いなく僕らの共通点になったらしい。

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