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選択肢は「生きる」しかない 創作大賞2024 #エッセイ部門 応募作品

エッセイ 選択肢は「生きる」しかない


+1人

1996年の自殺者数は、23,104人。うち20歳未満は492人。(引用:警視庁Webサイトより)
 そこに、私の+1が加わるはずだった。
 何か一つ、嫌なことがあったのではない。「生きる」こと全てが辛く、深い闇の中を一人で彷徨っているような毎日だった。

崩壊した家族


 まずは、生まれ落ちた家庭が崩壊していた。
 父、母、姉二人、弟、私の六人家族のはずだが、まるで一人で暮らしているようだった。

 家の中に「笑み」は一つもなかった。そして、「おはよう」「いってらっしゃい」「いただきます」といった「挨拶」も交わされることはなかった。
 だから、「挨拶」というのは、テレビの中か、家の外で使うものだと思っていた。

 保育園の頃から、どこにも行きたくなかった。けれども、保育園に行くという選択肢しかなかったので、文句も泣き言も言わずに登園した。
弟が「保育園に行きたくない」と泣いていたのを宥めながら、「泣いても無駄なんだよ。大人に従って生きるしかないんだよ」と心の中で呟いていた。
 私は、手のかからない子どもだったはずだ。自分がすべきことをしていた。子どもらしくいることが正解だと悟っていた。

 小学校へ入学した。集団登校が嫌だったが、抗うという選択肢は無かったから、黙って6年生の後をついて歩いた。

 同級生が、「全国」という意味は、世界中の国全てのことを指すのか、日本の全てという意味なのかを上級生と議論していたが、私はどちらでも良いと思っていた。
 教室には、落ち着きがなく歩き回ったり、騒いだりする生徒がおり、過敏な私の心が疲れるので、いつも不快だった。

たった一日の不登校


 小学校へは、行っても行かなくても良いような気がしたので、ある日、登校したふりをして、集団登校の集合場所ヘは行かず、家と塀の間に隠れていた。
母がパートへ行ったのを確認すると、こっそりと家の中へ入ろうとしたが、鍵の在処がわからなかった。いつもは、どこかしら窓が開いているのだが、その日に限って全て閉まっていた。
 仕方がないので、一日中冷たい小石の上で、塀の陰に隠れて過ごした。近所の人が通りすぎるたびに、息を殺し、ただじっと座っていた。

 昼食はもちろん食べることなどできない。
当時は、小学校へ水筒を持っていくという習慣が無かったので、飲み物も無い。
 夕方になり、母がパートから帰ってから、何食わぬ顔をして下校したふりをした。

 その晩、担任の先生から自宅に電話があったが、私が登校しなかったことを、母は責めなかった。責めないどころか、聞かれさえしなかった。
 
 母は子育てにも私にも興味が無かったのだ。
 家と塀の間で過ごしても、お腹が空くだけだし、退屈なので、次の日からはまた小学校へ行くことにした。

我が家の日常


 下校すると、毎日テレビを見て過ごした。弟は保育園にいたし、姉たちは高校生だったから、放課後は一人で過ごした。

 夜、父と母は毎晩のように喧嘩をしていた。
口喧嘩で目が覚めるのはいつものことで、ただただ怯えていた。トイレに行きたくても、寝たふりをしなければならなかった。まるで、大人の争いになど気づいていないという素振りをするのが子どもの使命だと思っていたから。

 父が母を殴り倒し、ドスンとかボコッとか、そういう激しい音が繰り返された。姉たちは泣き叫んでいた。
 ようやく静けさが戻り、まるでたった今目が覚めたような顔をし、両手で目をこすりながらトイレに行った。辺りには、赤いものが撒き散っていた。

 小学三年生になったある日、父は家に帰らなくなった。
 日曜日になると、朝、私と弟を迎えにきて、デパートや遊園地などへ連れて行ってくれた。そして、夕飯の前に、家に送り、父はそのまま車でどこかへ行ってしまった。
 私は、カーテンの隙間から、そっと覗き、父のクラウンが角を右折するまで見送って密かに泣いていた。

思春期


 中学生になり、バスケットボール部に所属した。レギュラーはたった5人なのに、30人以上の部員がおり、ベンチ入りさえできなかったが、部活動が忙しい毎日はそれなりに充実していた。
 
高校に進学した頃には、姉二人は既に家にいなかった。元々は父の連れ子であるので、父不在の家で義母と過ごす毎日は苦痛だっただろうと思う。

 思春期の悩みは尽きない。
 まずは自分の容姿が憎らしかった。文化部に入ったので、ぶくぶくと太り出し、顔じゅうのニキビを映す鏡の中の私がおぞましかった。
当時は、女子高生がブームを牽引しており、「ギャル」がもてはやされていた。
校則が厳しく、ルーズソックスはもちろん禁止。化粧はおろか、眉毛を整えるだけでも、生徒指導の先生から物差しで叩かれた。
 それでも、ぎりぎり地毛でも通りそうな程度にヘアカラーをしたり、叱られるか叱られないかの微妙なラインまでスカートをたくし上げている生徒もいたが、私がそれをしても可愛くはなれなかった。
 女子高生がモデルをつとめるギャル雑誌を読んで、同じものを買っても、決して華やかになれないほど、暗い影を背負っていた。

 高校ではクラス替えが無かった。
細かにコースが分かれているので、私が選択したコースは三年間同じメンバーなのだ。四人組が出来、始めは仲良くしていたのだが、メンバーの一人が独占欲が強く、グループ内の友人を私がからかったことに激昂した。私に対する仲間外れが始まった。家にも居場所がないのに、学校にも居場所が無くなった。

そして、《家庭環境が良くない家の子ども》の例に漏れず、弟がグレ始めた。
ある日、我が家の庭に暴走族集団が二十人くらいやってきた。弟が約束の日に来なかったので、タイマンをはりにきたらしい。
 私は、怖いと思いながら、カーテンの隙間から覗いてしまった。「お前んち、姉ちゃんいんのか?」と言う不良の声を聴き、絶望した。
 どうして我が家には父親がいないのか、と父を恨んだ。母と私と弟では太刀打ちが出来ないではないか。未成年とはいえ、相手は集団、しかも血気盛んな暴走族だ。布団にくるまって泣いた。

救いの声


 しばらくすると、玄関から穏やかな男性の声が聞こえてきた。
 宗教組織のお兄さんだった。
 我が家は、信仰宗教に入っていた。これが、また、夫婦喧嘩の一因でもあるのだが、宗教のお兄さんが、グレた弟の様子を見に、家庭訪問してくれたのだ。幸い、お兄さんに背中を押され、弟が謝罪する形でその場は収まった。この時ほど、宗教に入っていて良かったと思ったことは無かった。

 元々は、父方の祖母が、嫁である私の母に信仰を勧めたのだが、父はその宗教が大嫌いだった。
母が、信仰を始めてすぐ、父は仏壇を近所のどぶ川に流してしまった。捨てに行く際、幼い私を連れて行ったので、翌朝、私が母に捨てた場所を教えた。母は、ずいぶんと褒めてくれた。そして、「あなたが仏様を救ったのだから、仏様は一生あなたのことをお守りしてくれる」とその後何度も聞かされ、私はそれを信じていた。
 当然のことながら、私も毎日仏壇に手を合わせた。

一度、どぶ川に捨てられた仏壇は買い替えられ、新しくなり、父がいない時に母は一心不乱に読経をしていた。「祈れば幸せになる」と、私にも熱弁していた。

 母の宗教活動は忙しかった。
土日も平日の夜も、宗教活動の為に母は家を空けた。
当時、私が「どこへ行くの?」と尋ねても「いいところ」と答えるばかりで、母は自分だけいいところへ行っているのだ、私を置いてまで行きたいほど素晴らしい場所へ遊びに行っているのだと、孤独感が増した。

「生きる」ことに疲れた


 1996年のこと。十六歳の私は、「生きる」ことに疲れていた。どこにいても誰といても楽しくないし、自分の居場所は無かった。周りを見渡せば、幸せそうに笑う人ばかりが目に付き、私は余計に笑うことが出来なかった。

 仏様の教えで、「自殺すると地獄へ堕ちる。自殺しても、無間地獄からは這い上がれない。生きているよりも苦しい世界へ行くのだ」ということは聞いていたが、それさえもどうでも良かった。誰も私を必要としていない、愛していない。それならば、「生きる」意味などないに等しい。そう思った。

 しかし、「我が子が自殺した」という事実を、父と母に突きつけるのは親不孝だということはわかっていた。
だから、偽装自殺をすることにした。事故に見せかけるのだ。結局のところ、死ねればなんでも良かった。だから、「不慮の事故」に見せかけようとしたのだ。

決意


 その日は朝から決意していた。今日の午後、私はこの世を去る、と。
 授業が終わり、いつも通り部活動に出た。それから、いつもの時間に、自転車にまたがり、高校の駐輪場を出発した。いつもの異なるのは、生徒手帳をカバンから制服のポケットに移し替えたこと。
 事故死した際、すぐに身元が分かった方が、何かと都合が良いだろうと考えたからだ。

 チャンスは3回。トラックが行き交う国道を渡る信号だ。自転車を漕ぐペースを調整しながら走った。方法はこうだ。歩行者信号が青から赤に変わったら、自転車を加速する。右折信号で横断歩道を横切るトラックに衝突してもらう、という算段だった。そこの道路では、いつもトラックはせっかちに右折していた。
自転車や歩行者は、トラックに気を遣いながら横断しなければならなかった。

 1回目、2回目、3回目。失敗してしまった。なぜか。いつもは荒い運転手ばかりなのに、その日に限って、左右確認、巻き込み確認をしっかりするではないか。おまけに、明らかに私が信号無視をしているのに、ゆっくりと待ってくれたりもした。クラクションさえ鳴らされない。こんなに可愛くない女子高生がルール違反をしているというのに。

 家に着いてしまった。絶望した。こんなはずじゃなかった。今日は、家に着かないつもりだったのに。家には誰もいなかったから、もう一度やり直すことにした。今度は、別の道を、左右確認せずに横断することにした。
いつもは車が激しく行き交う道路だ。猛スピードで、見通しの悪い信号の無い交差点を走り抜けた。渡り切ってしまった。
なぜだ。
どうしてなのだ。
いつもは、車がひっきりなしに走っているではないか。まるで通行止めでもしているかのように、車が一台も走っていなかった。
 仕方なく家に戻ってひたすら泣いた。

悟り


 死ねなかった。
 死んではいけないということなのか?
 仏様は私に「生きる」という選択肢しか与えてくれていないのだと悟ってしまった。
 仕方がない。
その日からは、死んだように生きてきた。
 大学へ進学し、一人暮らしを始めると少し明るい光が見えたような気がした。全てを一人でこなす生活が心地よかった。

 化粧を覚え、ダイエットにも成功した。
 大学の教授から「あなたアイドルになれるよ」と言われて、「大学の教授なのにおかしなことを言うものだ」と思った。

 今になり、アルバムを開くと、大学生時代の私はそれなりに可愛かった。
アイドルにしては多少肉付きが良いものの、絶対にアイドルになるのは無理というほどでもなかった。
けれども、当時の私は、自分が可愛いわけがないと思っていたので、冗談とさえも受け取れず、ずいぶん変わったことを言う大人がいるのだとさえ思っていた。
 就職は推薦で決まった。
自分で言うのはおこがましいが、これも容姿で通ったようなものだった。

 大学の学生課へ用事があって訪ねたところ、「就職は決まったか?」と問われたので「まだです」と答えた。
実は、ある会社に毎年一人推薦枠があるのだけれど、一人の学生を送り込んだところ「もう少し明るい雰囲気の学生を」と断られたのだという。
「推薦枠はあるので、あなたなら大丈夫だと思うから受けてみないか」と誘われ、内定欲しさに面接に行ったところ、社長に気に入られて採用となった。

 入社してわかったことだが、男性が9割を占めるその会社には、女子の事務職員はほとんどが親族のコネか大学の推薦枠で入社しており、ミス○○市とか、そうでなくても、美しい女子社員が多かった。まさか、自分がそのような選考に入るとも思っていなかったので、当時は、はきはきと社長の問いに答えられたからだと思うことにした。

 社会人時代は、恋愛も経験し、それなりに異性との交流もあったが、常に「私なんか」という考えがつきまとっていた。
 地方出身者の同期から「相変らず美人やなぁ」と言われても、からかわれているのだと信じて疑わなかった。

 いかなる集まりに参加していても、「私はここにいて良いのだろうか?」という考えが頭から離れなかった。

 三十を目前にして、人生最大の裏切りを経験した。熱心にアプローチしてきた男性がいたので、「こんな私でも結婚できるならばしてみたい」と思い、プロポーズの言葉を聞いて退職届を出した。
けれども、理由も告げられず、ある日突然連絡が途絶えた。飛行機に乗って会いに行ったが、顔を見ることすらできなかった。

 傷ついた私は、宗教の先輩に相談したところ、瞬く間に広がり、ほとんど接点が無かった人からも、慰められ、人間不信に陥った。

 もう誰も信じられない。
 そう思い、再び、深い闇へと潜り込んでしまった。

再び闇の中へ


 一人暮らしのアパートで、途方に暮れていた。仕事は辞めてしまったので、生活に必要な金が入ってこなくなった。頼れるあてなどない。働かなければならないとわかっていたけれど、身体が動かない。一日中眠り続けていた。

 この時も「死」を望んだが、私には「生きる」しか選択肢が与えられていないと悟っていたので、余計に苦しかった。

 夜中に目覚めて、「死にたい」と検索するといろいろなサイトがヒットした。その中に、キリスト教系の団体が相談に乗ってくれるというものを見つけた。勧誘されることはわかっていたが、それでも誰かに聞いてほしかった。

 チャットで、どうして辛いのかを打ち込むとすぐに返信がきた。アメリカにつながっていると教えてくれた。受容と傾聴してくれるだけで、その手法は心理学の基本であることはわかっており、相手が私のことを心配しているわけではないとは思ったが、それでも私が打ち込んだことを打ち返してくれて「・・・だから辛いのですね」「そういうお気持ちなのですね」と繰り返してくれるだけでも、私の為に時間を割いてくれているというそれだけのことが嬉しかった。

 いよいよ貯金の底が見え、身体を引きずってハローワークへ行った。しかし、とても働けそうにない。何しろ、一日のうちのほとんどを寝て過ごし、起きている時間は枯れるほど涙を流し、食べては吐き、また眠る、そんな生活をしていたのだから。
診断名をつけられたくなかったので、病院には行かなかった。名前をつけられたら、這い上がれないような気がしたからだ。

 ハローワークでは、求人とは別の掲示板に、職業訓練の情報が掲載されているのを見つけた。
 働くことは出来そうにないが、学ぶことなら出来そうだと思った。
選考までに時間がなかったが、何とか申込書を提出し、面接と小論文の選考に合格し二年間、雇用保険を受給しながら勉強することが出来た。
途中、心因性の不整脈で深夜に総合病院に駆け込んだこともあったが、なんとか国家資格を二つ取得し、修了することができた。

 社会福祉士の資格を生かし、医療ソーシャルワーカーになった。
相談に乗るという仕事はやりがいがあり、必要とされていることが嬉しく、全力で取り組んだ。そのせいで、職場を離れた途端に猛烈な疲労感に襲われ、帰りのバスでは泥のように眠り、夜も21時には眠りに就いていた。神経をすり減らす毎日だったけれど、誰かに必要とされ、感謝されるのは生きる目的になった。

 相変らず、「生きる」しか選択肢がないから毎日をなんとか生き延びていた。自分で死ぬという選択肢が与えられていないのならば、「寿命」が早く来てほしいと熱望していた。
若くして命を絶たれ、親よりも先に亡くなった子の報道を見聞きすると、「私が代わってあげられたのになぁ」と本気で思っていた。

光差す


 そんな風に生きてきた私に、良縁が降ってきた。結婚したのだ。すぐに妊娠した。出来ちゃった婚だと思われるのは嫌で、知人にはわざわざ「できちゃった婚じゃないからね」と念を押すほど、結婚した途端に妊娠した。
まるで、赤ん坊自身が私のお腹にやってくるのを待ち望んでいたかのようだった。
 出産してからは、人生が180度変わった。
人生で、こんなにも自分を必要とする存在に出会ったことが無かったから。
私がいなければ、赤ん坊は生きられない、そう思うと、自分の存在の大きさに気づいた。
良い母親になろうとすればするほど苦しくなり、他人と比較しては自己嫌悪に陥り、赤ん坊と一緒に泣いた日もあった。ぼさぼさの髪で、よだれのついたシャツの私に、赤ん坊は決して離すまいと抱きついていた。

 あぁ、生きていて良かった。
 初めてそう思えた。
 毎日、そう思った。

 言葉を話せるようになった我が子は、
「ママ可愛い」
「ママ大好き」
「ママ、ママ」
と、全身全霊で愛を伝えてくる。

こんなにも愛されたことが、未だかつてあっただろうか。
いや、無かったのだ。
私の人生には無かった。
 自分もまた、こんなにも自分以外の誰かをを愛したことは無かった。

 三十五年間、我が子に出会うまでは「生きる」しか選択肢がないから生きてきた。
 今は、「生きたい」から生きている。

 1996年、私は「生きる」という選択肢しか与えられていないことに絶望していたが、時を経て、ようやくその意味を理解した。

 我が子が教えてくれた「愛」は私の中で何倍にも膨らみ、今では自分自身を「愛されるに値する人間だ」と思えるようになった。
 すると、闇は消え去り、世界が明るいものだと気づくことができた。

 「生きる」という選択肢しか与えられていないのは私だけではないはずだ。

 「生きる」意味など見出さなくても良い。
ただ「生きる」ことで、いつか光は差すはずだ。

 もし、迷っている人がいたら、ただ「生きる」という選択をしてほしい。

 辛く、苦しい経験をしているのならば、残りの人生は、明るく幸せな毎日しかやってこないないはずだと思うから。

終わり

note創作大賞2024に応募する為に、書き下ろしたエッセイです。最後までお読みいただき、ありがとうございました。

鵠更紗


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