見出し画像

「私の青い星~Bluestar~」第二話 創作大賞2024 #恋愛小説部門

第二話

 
 私が十七時から二十一時という夜のシフトに入る初めての日は少し緊張していた。昼よりも夜の方が忙しいと聞いていたからだ。
昼間の時間帯は、店長と社員の鈴木さんという男性、パートの女性二人と私というメンバーになることが多いのだが、その日は鈴木さんが十八時上がりだった。
いつも私が帰る時に「お疲れ様」と言ってくれる鈴木さんに、私が「お疲れ様でした」と声をかけて見送るのは、何だか変な感じがした。婚約者のご両親に挨拶に行くため、今日は慣れないスーツ姿で出勤したのだと、パートのおばさんがこっそり教えてくれた。
代わって十八時からは近所の大学に通うというアルバイトの男子学生が「おはようございます」と厨房に入って来た。

その男子学生と目が合った瞬間、私の身体は冷凍室の中で眠っているホイップクリームのようにカチコチに固まり、動かなくなってしまった。
その姿は、私が今まで会ったことのないほどに、まるでテレビの中から飛び出してきたかのようにキラキラと輝いていたからだ。
肌は日に焼けており、ウェーブした髪は茶色く染まっていた。目は少したれ気味の二重で眉毛は濃く太く、筋の通った高い鼻はまるで外国人のようだった。背はそれほど高くなく、一七〇センチくらいだろうか。腕まくりされた白衣から出た二の腕は、チョコレート色をしていた。横書きの名札は少し左に傾いており、時間ぎりぎりに出社してきたことを物語っていた。その斜めにピン止めされた名札には、黒崎健吾と記されていた。

深く彫られたヨーロッパの彫像のような眼で私を見つけると、
「新人さん?よろしく。」と手を差し出された。
私はその手をどうして良いかわからなかった。固まったままの身体で目線だけその手に向かって下げると、ようやく握手を求められているのだと気づいて、ピーラーを持つ手を左に替えて、白衣の裾で軽く手を拭き、私は彼の掌に自分の掌を合わせた。
初対面の人に、ましてや男の人の掌に触れるなど、私の生きてきた中では初めてのことで、動揺と緊張で少し震えている私を見て、黒崎健吾は笑って言った。
「何だかかわいいな。」
かわいい?
私が?
かわいいと言われたことは私の人生の中であっただろうか?
幼い頃は両親にそう言われて育ったのかもしれない。いや、そういうことではなくて。この「かわいい」は女性として魅力的だという意味の「かわいい」だろうか。それとも、祖母が「幸子はかわいいねぇ」という時に発せられるのと同じ意味の「かわいい」だろうか。そう考えている間に彼はもう目の前にはいなかった。

 黒崎健吾は、先ほど私と握手をした手に洗剤をつけて洗い、キッチンペーパーでしっかりと拭き取ると、店の看板商品であるきのこスープの鍋を掻き回し始めた。その手つきからすると、この店の厨房の流れに随分慣れているようだった。
 その日は忙しく、私は皿洗いに加えて、指示されたものを冷蔵庫から出したり、工場から送られてくるパウチに入ったステーキ肉を開けたり、初めての作業をすることになり、あっという間に時間が過ぎていった。
 
 Bluestarはファミリーレストランといっても、静岡県中部地方に三店舗のみの小規模店である。大抵は店舗で調理するのだが、味の付いたチキンステーキやサーロインステーキは、カットして調味した状態で食品工場から送られてくるのだった。三店舗の味を同一にする為に委託しているのだという。

 二十一時近くなると、厨房は少し落ち着いてきて、私は終了時間ぴったりに上がることができた。少し前から、黒崎健吾は休憩に入っている。
 賄いは、店のメニューの価格の四〇パーセントで食べられるが、私は家に帰ってから母の手料理を食べることにしていた。賄いの代金は給料から天引きされるのでアルバイト代が減ってしまうからだ。
 飲み物は一杯まで毎日無料で飲んで良いと店長から聞いていたので、私は氷をたっぷり入れたグラスにジンジャーエールを注いで休憩室に向かった。店内はエアコンが効いているが、厨房はコンロがいくつもあり、オーブンやトースターもあるから暑くて体中が汗でびっしょりと濡れていた。

エアコンの涼しい風に当たりながら廊下を通って休憩室のドアを開けると、黒崎健吾がバラエティ番組を見ながら、賄いの海老ピラフを頬張っていた。
黒崎健吾は十八時から閉店の二十四時までのシフトで、夕飯を食べていたのだ。休憩室にいることはわかっていたのに、いざ対面すると、私の身体は針金が通っているかのようにピンと固くなってしまった。
 「お疲れさま」
と言われて、私は「お疲れさまでした」と答えるのが精一杯で、少しぶっきらぼうに聞こえたかもしれなかった。
「二十一時で上がり?いいな。俺はラストまでだから、まだ長いよ。」と言われた。
 私は「はい。」と何だかかみ合わない返事をして、ロッカーの鍵を開け、バッグを取り出していると、
「高校生?」
と後ろから声がした。
「はい、南高です。」
と答えた。
「ふうん。俺、この辺の人間じゃないから、南高って言われてもわからないや。」
と返された。
南高と言えば、島田南高校を指すのだが、それが伝わらなかったらしい。
「黒崎さんは学生さんですか?」
確か、大学生だと店長が言っていたけれど、直接聞いたわけではないので、ここは知らないふりをして尋ねてみた。
「そう。静岡工業大学の四年生。俺さ、地元は東京なの。親戚がこっちにいて、田舎暮らしも良いかなと思って来てみたってわけ。波乗りもするし。」
私は、情報がたくさん入りすぎて頭の整理が必要だった。
 「そうなのですか。」とまた愛想のないような返事をしてしまった自分が嫌になった。
カーテンで仕切られただけの更衣室もあるが、Tシャツの上に白衣を着ていただけだから、ロッカーの前で白衣を脱いで、白衣をナイロンバックに詰め込んで着替えは終わった。まだ親しくない人との世間話の仕方がわからないので、これ以上、黒崎健吾と話をしていても、どんどん自分の顔が赤くなっていき、最後は熱が出るほど熱くなってしまいそうだったから、「お先に失礼します」とだけ言って、休憩室のタイムカードを押してドアを開けた。
 「お疲れさま」と声がしたけれど、何だか恥ずかしくて下を向いたまま出てきてしまった。

 東京から来た大学生。黒崎健吾と握手した自分の右手を左手で包み、その感触を思い出して胸が熱くなった。もしかしたら、これは恋というものなのかもしれなかった。中学生の時に、クラスメイトの男子に恋心を抱いていたけれど、それとはまた違った頭の中に何かぼうっとした物が浮かんでは消えて行くような不思議な感覚があった。
帰り道、廃棄ガスだらけの国道を走っている時でさえ、頬に当たる風が涼しく澄んでいるように感じた。
 帰宅して、母の作った海鮮丼とあさりの澄まし汁の夕飯を終えると、自分の部屋に入ってバッグの中からシフト表を取り出した。
次の日から七月の末まで、私のシフトはずっと昼間だけだった。もらったシフト表には、黒崎健吾の名前が当然あったけれど、私とは時間が重なることはなかった。いつも十八時から二十四時が固定のシフトらしい。私が十七時までだから、どんなにゆっくり帰り支度をしても、すれ違うことはなさそうだった。
 
 夏休みは美術部の活動がないから、朝は十時過ぎまで寝て、朝食兼昼食を食べ、十一時半に家を出てアルバイトをするというのが日課になっていた。
ある日、店長がカウンター越しに「吉村さん、どう、調子は?」と聞いてくれた。店長は、その日によって、ウェイターをしたり厨房に入ったりと臨機応変に対応している。今日は、ウェイターの日のようだった。
 「はい、何とか大丈夫です。」
「あはは、大丈夫か。それは良かった。」
と店長は笑った。私の返答の仕方がおかしかったようだ。
 「夏休みは、八月末までフリーで入れていいの?都合が悪い日があったらメモに書いてもらえるかな。」
「はい、休み希望はありませんのでいつでも働けます。あの、店長。私、十七時までってお願いしたのですが、この間みたいに、夜の時間でも大丈夫です。」
勇気を出してそう言ってみると、店長の顔が明るくなって、「本当?それは助かるよ。ほら、昼間はパートのママさんがいるから割とシフトを組むのは簡単なのだけど、夜は学生さんとかフリーターが中心でしょう。だから、吉村さんがそう言ってくれると助かるよ。それでは、またメンバーが足りない時に夜もお願いするよ。親御さんへ連絡する必要があったら、僕が電話するから遠慮なく言ってね。」
「はい、ありがとうございます。親には許可を得ているので二十一時までなら大丈夫です。」と少し嘘をついた。本当は人手が足りない時だけなら夜のシフトに入っても良いという条件で許可をもらっていたが、この際、言い訳は何とでもできると思った。
「そうそう、さっきさ、コーヒーゼリーアラモードを間違えて作ってしまってね。冷蔵庫に入っているから、吉村さん帰りに食べて行ってよ。」
どうやら御礼のつもりらしかった。

デザートは、厨房ではなく、ウェイターが作ることになっている。キッチンとホールの間にちょっとしたスペースがあり、デザートの作り方が図になって並べて壁に貼ってあった。どれも見ているだけで涎が溢れそうになるくらい美味しそうに見えた。
 社員の鈴木さんによると、料理を食べ終えた後に、お腹がいっぱいだからとデザートはキャンセルしたお客様がいたそうだ。店長は頃合いを見て途中まで作っていたのだった。それで、キャンセルになったコーヒーゼリーアラモードは行き場を失っていたらしい。

 いつも通り、洗い物を中心に、調理の補助をしているとあっという間に時間が過ぎて十七時になった。
冷蔵庫の一番奥に置かれた私のコーヒーゼリーアラモードは生クリームが固まるほどに冷えていた。フォークとスプーンを借りて、休憩室に向かう足は軽く、心は踊っていた。

黒く光る正方形のゼリーの上に、リンゴやバナナ、フルーツカクテルとバニラアイスにホイップクリームが載せられて、それらを一緒に口に運ぶ。キンキンに冷えたコーヒーゼリーの苦みが中和されて、口の中で消えてなくなった。テレビの音が聞こえなくなるくらい、天にも昇るような幸せを感じた。
ファミリーレストランで働くと、こんなにも美味しいコーヒーゼリーアラモードにありつけるのだと思ったら、いっそBluestarに就職しても良いかもしれないとさえ思えた。


この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

サポートはマガジンをご購入頂けると嬉しいです。記事を読んで下さるだけでもありがたいです。感謝!