初めての紅茶

明け方、艶かしいランプを通常の明るさに戻す。その人の頬を触る。風呂入りなよ、と揺り起こす。朝になってしまった。その人より先に起きて丁度いい具合にお湯を溜めておいたはずだが、自宅のものでないのだからいくら確認しても不安なまま。

隣にいただけだった。東京を離れる最後の晩だった。そして朝になった。自身の惨めさと間近の幸福に板挟みにされたまま、その人が風呂場へ消えて行く小さな背中を見た。その人は私の最後の願いを聞き届けて、日中疲れ切っているにも関わらず、用事があるとき以外の全ての時を私と共に過ごしてくれた。

何か欲しいものはありますか、と尋ねられた。物欲ないんだよ、と言うしかなかった。一緒にいてくれればいい、と付け足した。最も贅沢な願いだった。それから残された一週間を、全て私に捧げてくれたのだった。

日中忙しくしているその人は本当は疲労困憊に相違なかった。だからベッドに寝そべって少しの会話をした後、眠ってしまった。寝たの、と呟くように尋ねても、無言だった。吐息が聞こえてきた。呆気なく、確実な眠りだった。哀しさより愛おしさが勝った。

鏡張りの部屋でひとり身を起こした私は、それから翌朝のその人の用事に合わせてタイマーをセットした。電気を落とした。空っぽでもあり、満たされてもいた。隣で呼吸するその人の手を、布団の中で握った。握り返されることはなかった。そっと離して、次第に暗がりに慣れてきた目で、横顔を見た。こんなに美しいものは見たことがなかった。

心底愛している。朝になっても消えないでいてくれたらそれでいい。これが最後だ。疲れ切って倒れる直前まで、私はこの人を付き合わせた。この人は笑顔と、別れを知った潤んだ瞳でずっとそばに居てくれた。充分だった。

朝、焦ったさを仕舞い込んで私はその人に出来るだけのことをしてやりたかった。テレビの横にはコーヒーカップが二つ置かれている。コーヒーと紅茶を淹れることにした。洗面所には、その人の脱いだ服が重ねてあった。風呂場からはシャワーの滴る音がした。その人の影が見える気がしたが、半ば私の願望だったかもしれない。

不意に緊張した。私は普段コーヒーを飲むが、紅茶は淹れたことがないのだった。どれだけの熱湯をどの程度の時間入れておけばいいのか全く知らないのだった。初めて用意する紅茶を、愛しい人に差し出す状況を、強く意識した。その人が風呂から出てドアを開けてくるまでに用意しておきたい焦りもあった。

風呂場のドアが開けられる音がした。僅かに開いたドアの隙間から、鏡越しにその人の裸体が見えた。見てはいけないものを見る気がして、すぐに逸らした。こんな所から覗き見るような真似は自分が許せなかった。

まごつくのは仕方がないがせめて零さないように、入れ過ぎないように、念じるように動作を終えた。テレビの前の机に二つのカップを並べた。ロマンスの終わりを告げるがためか、訳もなくテレビを付けた。

その人が出てきた。ありがとうございます、と言って紅茶を飲んだ。無防備な格好で肌の白さが際立つ。せめてもう少しソファが狭ければ私は幸せだったのかもしれないが、もはやどうでもいい。

テレビ番組が行儀よく終わってしまうと、私は身の回りを片付けた。その人は先に荷物を手に持ち、玄関へ向かった。近くにいるのに寂しかった。後は靴を履くだけだった。

抱きしめたい。それだけ言った。その人の微笑みはあたたかかった。間近に感じて、これが最後だと身に染みた、私はまた涙を流した。こんな姿ばかり見せている。

外に出た。朝の光は遠慮がちに歌舞伎町を照らした。いつもの二人に戻らなければならなかった。その数時間後、私は日本を発った。常に繋がっていたい弱さを押し殺して、連絡することはほとんどなかった。

また一緒に朝ごはん食べましょう。その一言で、どれだけの夢を見れたことだろう。昼でも夜でもなく、朝。一緒に居られることの尊さ。好きだと思えたことのない紅茶を知りたくて、コーヒーに負けない頻度で口にするようになった。今度は自信を持って差し出せるように。


#小説 #ラブホ

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