川の音

留学先を川で決めたことは、君もご存知でしょう。

この川でぼーっとしたい。創作したい。眠りたい。ってね。


やっぱり私の勘は大当たりでした。君に出逢えたことと同じくらい、この川を目指して遥々やって来たのは、そうなるしかなかったと言えるほど正しい道だったと思えます。

石垣に座って、脚を川側に投げ出してぼーっとするんです。一応言っておくと、こんなことをするのは私だけでなく、地元のドイツ人もです。石垣の上で人々は談笑したり飯を食べたり空想にふけったり。

ハチにびっくりしたからといって川側に落ちないように気をつけてください。君なら虫に怯えて落ちてしまいそうです。
けれどドイツでは、パン屋で売られているパンに虫が止まっていても関係なく売り物になるくらい、虫は親しいものですから、少しは我慢しなくてはなりませんよ。

かく言う私も、入寮した時から風呂場に居座るクモにもはや愛着が湧いて、退治しようとは思わなくなりました。

川のすぐ側に大きなバードフィーダーがあって、ずんぐりしたハトが群れています。橋の下にはカモが自由に尾を引いて泳ぎ回っています。驚いたのですが、カモがキュンキュンとクゥンクゥンの中間みたいな音で鳴くんです。こんな声だとは、記憶の片隅にもありませんでした。何にせよ零れ落ちそうなほどのシンパシーを感じます。此処にいれて良かったです。


以前言ったでしょう。
日本にいるときの幸せは、ジェットコースターのてっぺんを目指すような、登りつめたらあとは落下するしかない、恐怖と隣り合わせの幸せなんだって。

けれどドイツにいると幸せは、川をたゆたうように感じられるのです。ここが絶頂であとは落ちていくしかない、そんな張り詰めたものではなくて、ただ存在することが心地いいのです。

いてもいなくてもいいちっぽけな自分が、大自然を前に、純粋に呼吸をしていればいいのです。


カモが低空飛行をし、川の波動を伝える。日光が川を照らす。舟に乗った人々は、このまま眠りについたらいい夢が見られそうな微笑みを浮かべている。


私は既に、行きたい場所に行けてしまった。書きたいものを書いてしまった。会いたい人に会えてしまった。
こんなに幸福なことはないと思っています。

けれど頑張ってもう少し欲を言うなら、君とこの川で会いたいです。君が来てくれる日をそっと、熱烈に、待ち望んでいます。

それまでの日々も生き尽くしてみせます。


敬具 空衣

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?