東京に懺悔を

あの晩。可愛いね、というセリフを耳元で聞いた。クドイほど何度も。
毒ヘビの胃液を飲み込むように苦々しく感じながら、好きでもないジントニックを二杯以上飲んだ。クラクラした。

誰とでもやりたいと言っても嘘にならないほど爆上がりしていた性欲が、完全に消滅していた。処理すべき目前の問題はもはや性欲ではなくて、ナンパしてきた男性をどうやって振り切るかだった。女子トイレに突っ伏し、薄暗い孤独の中で自分を整理した。

数日間胃が空っぽだったのだから、吐こうにも出すものが何もなかった。女子トイレの壁には、「過激なナンパで困ったら、お気軽に店員に教えてください」の広告が貼られている。そんなものは何の役にも立たない、せめて電話番号でも書いとけよ、だってあの男性は女子トイレの前で待っているのだからここを出たら再び捕まってしまう。

冷たかった便座が、気だるく座り続けた自分の体温で、徐々にあたたかくなっていく。
そのナンパ男性との会話は、ほとんど覚えていない。万札を手軽に出せるほど、ナンパの準備万端だったのだな、というどうでもいい感想しか浮かばない。そういえば男性の顔も記憶にない。そもそも目を合わせたいと思えなかったのだ。
酒を多少なりとも鍛えてきた私がテキーラとジントニックで酔ったわけはないのだが、心臓に悪い爆音のクラブミュージックと、しばらく胃痛に苦しんで飲食を断たれた空っぽの胃にアルコールを流し込んだことが、致命的に身体を苦しめていた。

こんなところで何をしているのだろう。虚無感。私には、何もなかった。あると思っていたものまで、すべて幻だった。涙があたたかく、私は生きているのだな、と思った。

言葉の数々が走馬灯のように浮かび、そうかと思ったらミサイルの如く心臓を突き破ってくる。そして延々と木霊する。

わずか数日前だった。
好きな人、いや、好きだったと過去形にしなければならない人に、言葉をぶつけられた。あんなに激しい憎悪は、生まれて初めてだった。彼女は感情の時限爆弾だった。普段の理性を脱ぎ棄てたように。

その言葉は死ぬまで私の心に沈殿する。排出先はどこにもなく、彼女は私一人に、引導を渡した。
言葉によって、それほどまで自分が打撃を受けたこと、そう言わせるまで彼女を傷つけたこと、何もかも破壊されればいいと思った。だからこそ、東京在住最後の夜、終電間際になってきた友人の誘いに乗って、渋谷のクラブまで駆けつけてきたのだった。

破壊衝動に似つかわしい渋谷のクラブで、誰でもいい何でもいいどうにでもなればいい心を、掻き回すならば、今すぐ女子トイレを出ればいい、それだけで私は望み通りボロボロになれた。

それなのに体は動かなかった。私が求めていたのは彼女であって、誰でもいいわけはなかった。
真実と孤独と胃痛だけ残して、東京の夜は明けた。

人間といったところでスクランブル交差点ですれ違う数ほど多種多様であるように、自明過ぎて定義はいらないと思えていたありふれた言葉一つにだって、ぶつかることなくすれ違うから気づかないだけで、本当は違った色や匂いや次元がある。

私と彼女はお互い向かい合っていたにも関わらず正面衝突を避けられないほど、東京の中心で出逢う運命だった。そう都合よく思う他、言葉を咀嚼する道が見えない。

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