生きていてほしい。

自殺していいのか?



もう二年も前になる。友人と、伝統(≒ボロさ)で名高い京大吉田寮に泊まったときの議論テーマだ。
11月末なのだから、オンボロの建物内は当然ながら寒かったが、今思えば9月半ばのドイツよりはましだった。

いいでしょ、と私は簡単に言った。
自分の命なのだから、どうしたっていいはず。自己所有権は自分にあるのだから。

友人は唸った。
そうは言えないんじゃないの。
空衣が死んだら哀しむ人がいる。その人たちの気持ちはどうするの。俺だって哀しいよ。

他人がどう思うか気にしなくなるくらい思い詰めた状態だから自ら死を選ぶのだと考えていた。他人がどれほど哀しもうが、そのとき既に自分の人生は終えているのだから、当人の心境とは無縁だろう。他人の嘆きは自殺を留めるのに何の影響も与えない。



それから私は新しい言葉を知った。

「種同一性障害」
(性同一性障害の文脈で捉えればわかる。生まれた種族を間違えてしまったのだ。)

私は鳥だと思う。人間であるのは自然ではないのだ。

だから人間をやめ、空を飛ぶことは願ってもない幸運に違いない。死ぬことは、幸せなことなのだ。
幸福を信じて自殺する人だっているわけだ。それを他人が嘆き悲しむのは御門違い。

あるいは、あちこちの本には宗教の影響が色濃い。
死は、救いなのだ。歓迎されるべきこと。



やがて、全く別の自殺理由も見つかった。

幸福すぎて死を選ぶのだ。

「不幸は耐え難く
幸福はさらに耐え難い。」
とは詩人ヘルダーリンの言葉。

これが幸せの絶頂だと信じられるほど極度の幸福状態に達してしまったら、自ら幕を閉じるのだ。
若く美しいうちに死にたい、と呟く女子はそう珍しくない。それと同じこと。
あるいは、芸能人が人気絶頂期に芸能界引退したとき、世間の人は あえていい時期に辞めたんだねえ と噂するだろう。

様々なことを自ら決断し切り拓くことを強いられながら道を歩んできた人間が、死に関してだけ生きることを押し付けられるのはおかしい。

私は自然に生きたい。ただそれだけの、望み。

不自然で堪らない種族、性別、社会、そうした脱ぎ捨てられない細胞に雁字搦めになって、慣れようが適応しようのない環境に殺される方が、嫌だ。




死のうと思っていた。

ドイツへ行ったら、綺麗な絶壁を探すのだと。
できれば川の近くがいい。
美しい景色の高台から、飛翔する。
三秒もすれば、全く違った風に「生きられる」と信じて。

日本に居るうちから、数人からは見抜かれていた。
何処かへ行ったらもう帰ってこない気がする。生きているうちにまた会えることを 無事でいることを 願っています。

何か聞かれるたびに、「そんなに先のことはわからないよ」と応えた。

日本で大切だったものはすべて手離した。銀行口座は空っぽに使い尽くした。日本に帰る理由を残さないため。ドイツで新しく「生きて」いくために。

そもそも「帰る」という言葉が馴染まない。私は生まれ育ったからといって日本を「帰る場所」だと思ったことはない。信じていなかった。私が此処にいれること。ただ存在していていいのだということ。


それなのに。
二年前、じゃあ空衣はどうしたら自殺しない絶対的理由が持てるんだ、と聞かれた。
そうだね、好きな人に死ぬなと言われたら。つまり愛が足りてないんだね。

即答だった。私は好きな人に求められたら生きていられるのだと。そのとき失笑するしかなかった。



出逢ってしまった。

「本当に好き。
生きていてほしい。」

ただそれだけ、生きていくに足る絶対的理由をくれる人。

その人の側にいたいと思った。
ただ其処にいたかった。呼吸を感じていたかった。私はそれだけで生きていけるのだから。

その人に恋人ができようが結婚しようが耐えただろう。遠くへ行ってしまっても応援しただろう。何処かで生きていてほしい。

同じように願っている。いつも。忘れることなんてない。思い出す、なんて動詞も不必要だ。
離れていてもすぐ側にいるから。大丈夫。好きです。言葉では足りないからどうしたらいい?

ドイツで小説を書く。そのつもりだったよ。
言葉が尽きるほど好きになってしまったらどうしたらいいのだろう。幸福が絶望と同義なら。

近頃は絵を描いてるよ。詩とかエッセイに近い雑文も。ひたすら言葉で紡ぐ小説は、あなたを語るには難しすぎる。いい絵が描けたら送っています。ポストなんてあんまり見なそうだけど。ちゃんと家に帰ってるのかな。寝る前はコンタクトを外してほしい。

本当はLINEも消すつもりだった。日本との繋がりは求めていなかったから。
一度だけ送ってしまった。

「茶色い地球儀を買った」
「ホワイトルシアンの美味しい店を見つけた」
「魅惑的なバードフィーダーがある」
「川が綺麗」
「来てよ」

あなたの返す言葉は最高だから、また信じて生きていきます。

昨夜は街のマーケットへ行って、木で出来たブックカバーを買いました。切り株をそのまま貼り付けたような、立派なやつ。値段も立派。
ただ存在するだけで幸せになれる無意味なものっていいよね。

私の存在は無意味かもしれないが、ただ存在するだけであなたと共に幸せになれる存在でいたい、と思っています。

絶壁からの飛翔は、先延ばしになってしまいました。あなたを感じることで生き延びているだけの私は、まだひとりで立って歩けないヒヨコです。また会える時にはあたたかい翼であなたを包み込めるように成長していたいです。

こちらドイツは既に人肌恋しい季節でつまりあなたに会いたくて堪らない一刻一刻の積み重ねなのだけど、そちらでも風邪など引かないで。お元気で。


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