ぜったい失敗する! 死なないための就活マニュアル ver.1.1

★この記事は、2018年6月1日にはてなブログに公開した記事に加筆・レイアウト修正などを加えて再度公開したものです。


はじめに

就活生のみなさん、こんにちは。ちょうしはどうですか。

20卒のみなさんはもうすぐ正式に選考解禁ですね。でも、まわりがもう就活を始めていて焦ったり、すでに情報戦みたいになってくたびれたりしているかもしれない。21卒のみなさんは経団連のルールが廃止になるとかで、なにがなんだか落ち着かないかもしれない。既卒や第二新卒のみなさんは、一度レールを外れてしまったために、就活がすごく気の重い、むずかしいことに思えるかもしれない(わたしがそうだった)。

そういうあなたに読んでほしくて、このマニュアルを書きはじめた。

先に言っておくと、これは、就活に成功するためのマニュアルではない。
書いているわたしも、わけあって二回就活をしているけれど、その都度ひとつずつしか内定をもらえていないので、とくに大成功もしていないと思う。
なので、エントリーシートの書き方とか、面接のテクニックとか、そういうものにはとくにふれない。

これは、あなたが就活で死なないためのマニュアルだ。

就活をしていると、どこかでしんどい道に踏み込んでしまうことがある。
それは、かならずしもあなただけが悪いわけじゃないけれど、かといって、かならずしも環境だけのせいとも言い切れないばあいが多い。
だから、冷静にとらえづらかったり、誰かに相談しづらかったりする。そして、あなたは自分で自分を責めはじめてしまう。まわりのみんなはつつがなくこなせていることを、自分だけがクリアできないような気分になるかもしれない。

じつはわたしは、前述した二度目の就活で、就活生のサポートをする仕事に就いた。
なので、そういう就活生と日常的に会って話を聞いている。しんどい思いをしている就活生は、ほんとうにたくさんいる。それがこの記事を書きはじめたきっかけでもある。

毎年、この時期からしばらく経つと、「就活自殺」の見出しが出る。

自殺というと、もしかすると遠いことばに感じられるかもしれない。
でも、あなたが思っている以上に、あなたという存在はかんたんにいのちの危険にさらされてしまうのだ、ということを、わたしはまずあなたに知っておいてほしい。

なので、このマニュアルで就活を成功させようとしても、あんまり意味はないと思う。

でも、その「成功させなければ!」という気持ちも、ふしぎとあなたがげんきで過ごすのをじゃますることがあるのだ。

正直にいえば、「絶対失敗する」というのさえ正確じゃない。「成功をめざさない就活マニュアル」というほうが近いかもしれない。
ただ、「絶対失敗するぞ!」というくらいの大げさな気持ちで挑むほうが、げんきでいられるのではないかとわたしは思っている。

そして、あなたがげんきでいることが、このマニュアルの最大にして唯一の目的だ。

もくじ

はじめに

選んでいるのはあなたのほうだ

それは人格の問題ではない

「やりたいこと」の呪いを解く

就活のダサさのこと(New!)

それでもまだだめだったら(New!)

おわりに


選んでいるのはあなたのほうだ

げんきでいるためには、まず、下手に出ないほうがいい。
「サイレントお祈り」に代表されるように、企業はなんとなく居丈高なことがある。それで、こちらもなんとなく弱気になってしまう。媚びへつらっているようなきぶんに陥ることさえある。
こちらはせいいっぱい下手に出ているのに、そこを自動送信のメール一通で落とされたり、まして「サイレント」をやられたりしたら、なおさら人間あつかいされていないかんじがしてくる。

とはいえ、システム上、どうしても就活生は後手にまわりがちでもある。

企業がわの採用人数より応募人数のほうが多いぶん、それはある程度しかたない。あなたの側だけが先に「この企業に入りたいです!」という意思表示を一方的にした状態で臨まなければならない、ということも、あなたの大きな弱点だ。

でも、就活は本来、対等であっていいはずだ。
忘れがちだけど、就活はマッチングにすぎない。お互いの条件が一致したとき、はじめて入社が成立する。

なのでもちろん、あなたは内定を得たあとで、それを断ることができる。先に「この企業に入りたい」という意思表示を済ませてしまったにもかかわらず、だ。

つまり、企業があなたを選んでいるのと同時に、あなたも企業を選んでいるのだ。

品定めされ、選別されることに疲れたときには、じぶんが企業の選考をしてやるつもりで面接にいってみてほしい。

あなたにとって、企業を選ぶ選考基準はどこだろう。
社内は居心地がいいか、面接官の質問は信頼に足るものか、入社してからあなたを尊重してくれるようすはあるか。もしあなたが女性で、ヒールを履くのが苦手なら、社内の女性がヒールを履かずに済んでいるかどうかチェックしておいた方がいいかもしれない。

とくになにも変わったことはしなくていい。ただ直観をはたらかせ、よく観察するだけ。それだけで、ただ選ばれるのを待つだけの息苦しい立場から脱出できることもある。

慣れてきたら、あなたが企業を試験してやることもできる。
もちろん、表向きには企業があなたを試験し、合格と判断すればあなたを選ぶ、ということになっている。そこに変わりはない。
しかし、その基準はあいまいで、相対的で、秘匿されている。わたしは、そのことが就活をしんどくしている一因だと思う。部屋に入るときのノックの回数、履歴書は手書き、笑顔であかるくはきはきと。基準が不確かで、どこで落とされるかわからないから、どんどん神経質にならざるをえない。しまいには、一挙手一投足が落とされる可能性をはらんでしまう。ルールは増えていく一方だ。

げんきでいるためには、それに付きあい切ろうとせず、どこかで見切りをつけるくらいでいい。そしてそれが、あなたが企業を試験することにもなる。
基準の不確かさを利用するのだ。「履歴書は手書きでないといけない」という暗黙の了解を持つ企業に対し、あなたは「そんなの、古くさい労力の無駄づかいだ」と感じたとする。
そうしたら、ワープロ打ちの履歴書を出せばいい。するとその企業はあなたを落とすだろう。

これは、あなたが企業の試験に不合格になったのではない。企業があなたの試験に不合格になったのだ。

企業は、ワープロ打ちの履歴書を出したあなたを、採用することができなかった。ここで不確かだった採用基準は明らかになり、あなたはその企業が、「古くさい労力の無駄づかい」を重んじる企業であったと知る。もしもあなたが本気で「手書きの履歴書」が嫌いなら、もし無理に選考を通ったとしても、入社してからそりが合わないことが出てくるだろう。だから、ここでの不採用通知は、実質あなたの勝ちだ。

そんなふうに企業を選ぶこともできる。女性社員がヒールを履いているのか観察する方法のほかに、はなからあなたがヒールを履かずにあらわれて、企業がそのあなたを採用できるかどうか試す方法もある、ということだ。

だから、守るのが負担になるルールがあるなら、思いきって破ってみてもいい。
逆に、そこを無理して守ってでも行きたい企業なら、じぶんにとってそれだけの価値がある、と判断することもできる。

(もっとも、これは暗黙の了解のばあいで、もしも「履歴書は手書きで」と明言されていた場合にワープロ打ちの履歴書を持ち込んでしまうと、「手書きの履歴書が嫌い」以上に「注意書きが読めない」といういらない情報を受け取られてしまう)

あなただけが選ばれるのを待ち、企業のごきげんを伺いつづける必要はない。


それは人格の問題ではない

就職することを、「社会に出る」ということがある。
「社会」というと、なんとなく広範で公的なものがイメージされやすい。就活をしていて、「社会」なる大きくて正しいものに、ちっぽけな自分が試されつづけている……という気分に陥ることはないだろうか。

そういう感覚になってくると、何社かにつづけて落とされたとき、まるで自分が「社会」全体から拒まれているような錯覚を得ることがある。「社会不適合者」ということばが脳裏をよぎっていくかもしれない。
自分は必死で「社会」の門戸を叩いているのに、すげなく突っ返されて、自分だけがそこにいれてもらえない。

そうすると、どこかで「自分のなにがいけないんだろう」と考えはじめるだろう。
ここでよくないのは、就活がときに、さもあなたのこれまでの人生や、人間としての在り方を問うているかのようなそぶりを見せることだ。
長所と短所にはじまり、人生で一番がんばったことや大切にしていることのエピソードをしゃべらされ、人生の目標を明かした上で落とされる。

これがけっこうきつい。
もちろん、就活での評価がすべてではないことは、あなたも頭のどこかではわかっているだろう。それでも、いつか結果を出さなければいけない焦り、まわりからのプレッシャー、いろいろな要素が重なると、ふとどこかでこう思ってしまうかもしれない。

自分はからっぽだ。社会に評価されるところがなにもない。だめな人間だ。

もし、あなたがいまそう思っているとしたら、わたしは責任をもってそれは違うといいたい。

あなたがいま評価されようとしている相手は、「社会」などという大げさなものじゃなく、ただの一企業にすぎない。

企業はまるで「社会」の代弁者のように、もっと悪ければ「社会の厳しさ」の代弁者のように振る舞うことがあるが、それに惑わされてはいけない。

企業は、極端にいえば単なる利益を生むための寄り合いであって、それ以上のなにものでもない。
だから、あなたがいまジャッジされているのは、あなたの人格や人生ではない。あなたがその企業に利益をもたらすかどうか、ということだけだ。

そんなことどうやってわかるんだ、と思うかもしれない。
そのとおりだ。当然、企業からしても、それはそこまでわかっていない。あなたはまだ会社員として働いたこともないし、あなたもよく知っているとおり、数年あれば人はどんどん変わっていく。あなたがどのような能力を持ち、どのような可能性を持っているのか、企業はほんとうはなにもわかっていないのだ。

でも、採用と不採用を決めなければいけない以上、わかったように振る舞わなければならない。それでしかたなく、さも人格や人生を見ているような顔をする。

その程度のことなんだ。だから、あなたはなにも差し出さなくていい。

あるいは、なんにせよ、利益をもたらせないと思われている時点でつらい、と思うかもしれない。
もしそうなら、改善を試みてみてもいい。
ただ、そのときに自分の人格や人生を自分で否定してしまわないことが大事だ。あなたがしなければいけないことは、自分がどのように会社に利益をもたらすのかイメージすることであって、自分の過去を振り返って見栄えのいいエピソードをかき集めてくる(そして、それが見つからなくて絶望する)ことではない。安直な「自己分析」から逃げよう。

あなた自身までが、企業といっしょになって、あなたの人生を責めなくてもいいんだ。
そう思うだけで、いくらか楽になるんじゃないだろうか。


「やりたいこと」の呪いを解く

「自己分析」から逃げようと言った。就活をしていると、「自己分析」はしょっちゅうついてまわる。あなたも適職診断を受けたり、自分にキャッチコピーをつけたりしているかもしれない。
まずは自分を知らなければ、自分の能力ややりたいことを知ることはできない……という理屈だ。それはまちがっていない。

でも、そういわれることに、違和感やきゅうくつさを感じることはないだろうか。

「自己分析」をするときには、これまでの経験や感じてきたことから、「あなた」がなにを大切にし、なにをやりたいのか導きだす……という方法が勧められる。星同士を線で結んで星座を見出すように、過去から自分を探そうとする方法だ。
しかし、そうそううまくはいかない。

いざ半生を振り返り、そこになんらかの像を結ぼうとしても、おおくのばあい、そこにはあやふやでありきたりな自分像しか出てこない。
でも、それを正直にいうと、「軸がない」「からっぽだ」「能力がない」「やりたいことがない」と見なされてしまう。
自分でもそう感じるのがいやで、自己分析がきらいになったひともいるだろう。

そんなふうに、あなたは「自己分析」をきっかけに、あなた自身を見失ってしまう。

なんで、お手本通りにいかないんだろうか。
わたしも自己分析はとても苦手だった。いざ振り返ってみると、自分のやってきたことにたいした整合性がないのだ。
あるときは友だちをすごく大事にしていたかと思えば、またあるときには自分本位な行動をとる。
あるときはやる気にあふれ、目標達成に尽力したけれど、そのときとは別人のように意気消沈していたこともある。
就活で必要とされる「軸」が、いっこうに見えてこない。

いや、解釈次第で無理やりこじつけることはいくらでもできそうだけど、それをすればするほど自分の感覚からは離れてしまう。

そして、本来自己分析で割り出せるはずだった「自分のやりたいこと」に関しても、なんだかもやがかかったように感じられる。

おそらく、わたしたちは「自己分析」をしようとするほど、自分がそう簡単に割り切れないと気づくはめになる。
そりゃそうだ。そもそもほんとうは、あなたはすごく複雑で、分かりづらい存在なのだ。長所と短所だけではとても言いきれない。それどころか、あなたがいま書き出した要素さえ、あなたのすべてではない。あなた自身にさえ、あなたをすべて捉えることはできない。

だから、自己分析ができないからといって、自分は空っぽだとか、何もないとか思わなくてもいい。
むしろ、いまことばにしきれなかったり、うまく認識しきれなかったところに、あなたは眠っているのかもしれない。

「でも、自己分析ができないと、自分のやりたいこともわからない」と言われそうだ。
その焦りこそが、就活をしんどくしているいちばんの原因であるとわたしは思っている。

就活は、しつこいほどこちらの「やりたいこと」を問うてくる。困っている就活生はみんな、「でも、特にやりたいこともないんです」と漏らす。

でも、もしもあなたに「やりたいこと」が思い当たらないとしても、就職はできるし、してもいい。

就活は、就職することをずいぶん大仰で、ドラマチックなことのように演出してしまった。「やりたいこと」以外、働く理由にはならないかのように。

それは、呪いみたいなものだ。「やりたいこと」がなければ、就職するに値しない、という呪い。

そのせいで、無理やり「やりたいこと」をひねり出そうとして苦しんだり、もしくは会社に入ってから失敗だったと気づく目にあったりするかもしれない。

あなたはどうだろう。
やりたいことこそないにしても、「仕事をやりたい」以外に、あなたがいま就職という道を選ぼうとしている理由はあるはずだ。
それはお金のためかもしれないし、家族の期待に応えるためかもしれない。もしかしたら、もっとあいまいに、なんとなくみんなと一緒の道を進んだほうが安心するからかもしれない。
それは、じゅうぶんりっぱな働く理由になる。


就活のダサさのこと(New!)

就活に違和感を覚えるひとのなかには、「就活」に対して、なにか苦手意識を超えた嫌悪感みたいなものを抱えているひともいるみたいだ。自分自身が就活にひどい目にあわされたとか、結果が出せないとか、そういう原因以前のもの。

そういうあなたの目には、リクルートスーツの集団や、決まり文句みたいな自己PRは、うつろで気味の悪い付和雷同にみえる。適応しきることも、かといってやめてしまうこともできない。だれのいうことも嘘くさく思えるし、逆に、就活を必要としないインフルエンサーや起業家たちはまぶしく、ほんとうに思えてくる。

これも、「やりたいこと」の呪いのひとつではないか。
「やりたいこと」があるひとはすごくて、ないひとはだめ。そのジャッジを繰り返すと、どこかで就職の枠を飛びこえて、自分がやりたいことのために個人でがんばっているひとがもっともすごい、というところに行きつく。
そうなると、そもそも就活をすることが、ダサい、ばかばかしい、避けたいことに思えてくるかもしれない。それでもやりたいことがない(あるいはお金になっていない)からしぶしぶ就活をしているのに、就活でもやりたいことを求められたりして、もうめちゃくちゃだ。
そして、ときに、自分が就活に向けていた嫌悪のまなざしが、就活をしなければいけない自分にはね返ってくる。あなたは就活を否定するままに、自分を否定しはじめてしまう。

これはとてもしんどい。わたしもそうだった。
多くのばあい、無理を押して続けられるほど、就活は楽ではない。やればやるほどタスクやスケジュールは過密になるし、落ちれば多かれ少なかれダメージがある。
就活をしている自分のことが嫌いならなおさらだ。
就活はダサい、ばかばかしい、そして、わたしはかっこわるくて、なにもできない……
さっきもいったけれど、あなたはすごく複雑で、わかりづらい。自分でもとらえきれないたくさんの面を持っている。そのなかで、自分が好きになれない自分の面ばかりと付き合わなければいけないのは、そりゃあ、しんどい。

でも、就活に対する違和感をなくせとはいいたくない。なくしたくてなくせるものでもないし、だいたい就活にはおかしいところがたくさんある。だから、あなたの批評眼には意味がある。あなたの就活を嫌悪するまなざしが、いつか就活がもっとましになる手助けをするかもしれない。

問題は、きょうのあなたが、どうやってきょうを生き延びていくかということだ。

就活によってだれかに否定されたようなきぶんになることもあるだろう。その対処法はここまでで書いたつもりだ。
でも、あなたのばあい、まずあなたを否定しているのはあなただ。
誤解しないでほしいんだけど、自分を認めろとか、好きになれとか、そういう飽き飽きすることをいうつもりじゃない。
わたしはあなたのことをなにも知らない。あなたは少なくともいくらかは、実際にかっこわるくて、なにもできない人間なのかもしれない。しかも、就活は実際にダサく、ばかばかしい。

でも、そういうあなたが、そういう就活を選んで、それでもどうにかこうにかやろうとしていることを、わたしはぜんぜんダサいとは思わない。

就活をする、という選択は、基本的にはとても安全で賢い。なにもできない結果の消極的な選択だったとしてもだ。いくら時代と共に働き方が変わりつつあるとはいえ、多くのおとなはこれまで長く用いてきた価値観であなたのことを見る。とりあえず就職したことがあるのとないのとでは、まだ見られ方は大きく違う。(わたしは考えなしに無職で卒業してしまい、いっとき根無し草となった)

皮肉なことだけど、就活、ひいては社会に適応できないあなたにとってこそ、就活はまちがいなく命綱になる。適応しきらなくてもいいし、違和感を消さなくてもいい。ばかばかしいと思いつづけたままでいいから、自分勝手に、生き延びるために就活をしてみてほしい。
あなたが生き延びようとすることが、わたしにとってはすごくうれしいのだ。


それでもまだだめだったら(New!)

あまり言いたくはないけど、それでもだめなときは来るかもしれない。
かならずしも内定が出なかったときとはかぎらない。内定を二十個持っていてもまだ足りないかもしれない。どこよりも行きたかった会社の内定をもらっても、それを褒めてくれるはずだっただれかが顔をしかめただけで、あなたはだめになってしまうかもしれない。

そういうときはどうしようか。
覚えておいてほしいことがある。さっきは「就活は命綱だ」といったけど、だからといって、就活をやめたらすぐ死ぬわけではない。ゆるやかに死には向かっていくかもしれない。でもすぐではない。これが大事だ。

だから、このまま就活を続けたらもうすぐ死んでしまうと思ったら、やめてしまえ。
人生を投げうてといいたいんじゃない。すぐ死ぬ道と、ゆるやかに死に向かっていく道のふたつしかないなら、せめてゆるやかな道を選んでほしい。

たしかに、就活をやめたら選択肢は減るかもしれないけれど、死ぬよりはずっと多い。ゆるやかなぶん、あなたには猶予が生まれる。生きられる時間を稼ぎ、即座にでなくていいから、できる範囲で次の手を打つ。軽々しく「死ぬ気でやれ」なんて言ってくるやつのことばを信じるな。死ぬ気でやったら、われわれはかんたんに死ぬ。

ここまでさんざん書いてきておいてなんだけど、あなたの生死に比べたら、就活とか、内定とか、学歴とか、大手とか、そんなこと、わたしにとってはほんとうにどうでもいいことだ。あなたにとってはそうじゃないのかもしれないけれど、でも、たぶん、わたし以外にもわたしと同じように思っている人はいる。

自分にはそんな人いないと思うだろうか?
でも、わたしが遠くにいるあなたのことをそう思っているように、だれかが死ぬことがかなしくてたまらない人、というのは、案外世のなかにいるものだ。そういう人たちは、どうすれば命の危機に瀕する前にあなたに出会えるのか、いつも考えている。なかには悪い人もいるかもしれないが、公的な団体ならおおよそ大丈夫だ。わたしも紹介できる。

もうだめだ、誰も頼りにできない、と思ったら、その人のためだと思って連絡してみてほしい。あなたから連絡がきたら、彼らはきっと喜ぶだろう。
(もちろん、わたしもそうだ)

最後の最後にめちゃくちゃ当たりまえのことを書いてしまった(死ぬ前に公的な団体に連絡しろ、とか)。当たりまえのことに行きつく一線、みたいなもの、ありますよね。

レールを降りるのはとても怖いけれど、就活をやめたらやめたなりの世界がひとつづきで出てくるだけだ。それはまあ、多少めんどくさかったり、期待外れだったりするかもしれないけれど、そこからどうしていくか、わたしでよければいっしょに考えよう。
(わたしは就職して仕事を紹介できるようになったので、こういうことを軽々しくいえるのだ!)


おわりに

強がって「絶対失敗する!」と銘打ってしまったけれど、わたしはほんとうはあなたに就活に成功してほしいと思っている。

あなたにとって、就活の成功とはなんだろうか。
それは、誰もが認めてくれる会社に行くことかもしれないし、そうじゃないかもしれない。やりたいことが見つかることかもしれないし、そうじゃないかもしれない。

この、わずかな「そうじゃないかもしれない」のために、この記事をここまで書いてきた。わたしはあなたのことを友だちのように思っているけれど、同時にあなたのことはなにもしらない。

もし、誰にも相談できないことがあったら、連絡してほしい。かならず返事をすると約束する。

そして、そうでなくても、できたら、あなたにはげんきでいてほしい。


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