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衣食住よりも、エネルギー好き。

私は「エネルギーがわかっちゃう系」の人である。
 
 
とはいえ昔からそうだったワケではなく、一種の能力開花。
 
怪しいことをしたわけではなく、単に「見えないエネルギーの世界がある」と知ってから、それを意識していたらなんとなく年々上手くなっていっただけ。
 
だからきっと、誰にでもその能力はあると思う。

で、わかっちゃうようになってから世の中の人たちを見渡してみると、なるほど大半の人は「見える世界」を重視して生きていることが判明。
かつては私もそこにいたので、出てみて初めて「見えた」という感覚。
 
別に出たから偉いとか思ってませんし、何度も言うけど誰にでもできるから。
 
そこに気付けるタイミングが、人生でいつやってくるかの違いくらい。
 

 
タイトルに「衣食住」といれたのは、エネルギーも大事だよと伝えるために、何を並列させたらいいかなと考えて、「生きる上で一番欠かせない」とされている「衣食住」を選びました。
 
「エネルギー」という用語は、普通に理科や社会の教科書にも出てくるし、別に怪しい言葉じゃないと思うのだけど、スピリチュアル業界で使われると途端に「怪しい」となる面白さ。安易な認識ですこと。
 
 
意味を調べたら、
 
①基本的な物理量の一つ。仕事をすることができる能力、または量
②人間の活動、行動の源となる力。精力、活気
 
今回扱うのは②の方ですが、結局は①も本質は同じ。
 
別に専門家じゃないし、理論展開したいワケでもないので、その辺は自己判断で読んでくださいね。
 

 
人として生きることは、そもそも「活動すること」とも言えます。
衣食住はまさにそれ。
食べること、住むこと、寝ること、排泄すること、などの活動が止まれば、生きることが危うくなりますよね。
 
で、その「活動」に精力や活気がみなぎっている状態が、「気が巡っている」みたいに捉えられていると思います。
※エネルギーよりも「気」という言葉の方が幾分馴染みやすいのは、やはり日本人だからでしょうね。
 
気でもエネルギーでも呼び方はどちらでも良くて、現実的な「活動」以前にまず、身体そのものが「活動」を続けてくれているおかげで、私たちは生きられています。

突然心臓が止まったり、呼吸が止まったりしないのは、適切に栄養を摂取して排泄が行われているのは、身体そのものが「生きようとしている」からに他ならず、だから私たちの意識的には「生かされている」と表現する方が妥当でしょう。
 
この「生きるための活動」のほとんどは、「無意識下」で行われていますよね。顕在意識だけで活動を維持しようなんて思ったら、即死しますよ多分。
 
いやもうほんと、すぐ何かと言うと出しゃばってきてマウント取ろうとする顕在意識(主にエゴの状態)の、幼さと浅はかさには苦笑しかありません。
なんもしてねーっつの。(失礼)
 
 
衣食住をつつがなくこなせているのは、エネルギーの巡りがあるということ。だから私が、衣食住と同じかそれ以上に、エネルギーに興味を持つ理由が、少しだけわかってもらえたと思います。
 

 
いわゆる、「その人がいい感じに巡ってるかどうか」がわかっちゃう私なんですが、その状態をイコール「健康」としてしまうと、ちょっと違っていて。
 
脳みそはなんでも「基準」を欲しがります。
その基準を元に、グッドかバッドかを判断したいし、できればグッドの状態を維持したいと思います。
だからいつでも自分の身体の状態に目を配り、何か少しでも「これはバッドかも??」を見つけると、慌てふためいてグッドに修復しようとします。
 

グッドの状態=健康=生存確率が上がる(死が遠ざかる)
バッドの状態=不健康=死ぬかもしれない(死が近づく)
 
という図式になっているからす。
 

これは、元々私たちの身体に組み込まれている、「生命維持システム」の作用によるものかと思います。
 
 
人間もまた動物や植物と同じ「ひとつの種」でありますから、種としての目的はただひとつ、
 
「種の繁栄(=絶滅の回避)」
 
しかありません。
 
そのために長い歴史の中で沢山の「生存確率を上げるためには?」が、身体でも頭でも吟味され続けてきたことは、想像に難くありません。

だから、身の危険を感じれば今でも条件反射的に自分を守るでしょうし、病気を怖れるのもある意味自然な反応、なのですが。
 
 
現代を見てみると、日本においては「命の危険」を感じるのは、災害時くらいです。ある意味「生命維持システム」の勝利ですよ。
これだけ安全安心な世界を創れたわけですから。
 
ところがね、このシステムは止まらないんです。だって、人間の基盤だから。人間がそれを止めることなんてできるはずがなくて。するとどうなるか、「もっと安全を、もっと安心を」となります。その方向性しか持ってないですから。わかります?柔軟性が弱いのが。
 
こんなに安心して暮らせる世の中になってもなお、まだ発展しようとしている、まだ便利さを追いかけている、まだ「より良く」なろうとしている。

その結果どうなったか?
資源の枯渇と、環境破壊、地球温暖化現象に繋がりました。


えっとー、、、 
そもそも地球がダメになっちゃったら、「生命維持システム」がいくらあったところで本末転倒ですよね。
というところでさすがに「やばいね」となって生まれたSDGs、みたいな。
 
それはもはや「発展」や「進化」と言うよりも、蒔いた種の回収作業に見えますw

でも、仕方ないんです。進化って、前にしか進めないから。
人間は「体験」することでしか学べないから。
 
なので、起こることに間違いはないんですけどね。
 

 
エネルギーの話に戻すと、エネルギーには「陰と陽」があるっていうのは、聞いたことがある人も多いと思います。
 
一般的には「嫌なこと、暗いことが陰」「嬉しいこと、明るいことが陽」みたいに捉えられていますが、もう少しシンプルで。
 
「相対する2つのエネルギーがある」
 
というだけなんですね。
というか、陰陽がなければ全ては物質世界に存在できませんから、この世界のルールと思ってもいいかもしれません。
 
 
「エネルギーの巡りが良い」とは、
陰陽バランスの良さとも言えます。
 
身近なところで言うなら、起きて活動する時が「陽」、リラックスや睡眠などの休息が「陰」とした場合、このバランス崩れたら体調を崩したりしますよね?
陰陽バランスって、このくらい身近にあるものです。
 
物質世界の全ては陰陽エネルギーで成り立っているとしたら、そのエネルギーの巡りがわかれば、「じゃあどうしたらいい?」も簡単にわかりそうな気がしません?
そんな仕事を実際、させてもらっているのですが。
 
 
そんなエネルギーを「怪しい」と言っちゃう時点で、残念。
ただ「知らないだけ」を誤魔化しているにすぎないのに。
とっとと知ればいいのに。
 
エネルギーは「感じとるもの」なので、頭では理解できません。言葉は感じたエネルギーの「解釈」に過ぎず、解釈は人の数だけありますから、感じることなしに解釈だけをいくら聞いても、大体は情報に振り回されます。
 

 
では、「生命維持システム」とこのエネルギーはどんな風に繋がるのか?を考察してみましょう。
 
気の巡りがあることで私たちは「生かされている」わけですから、生命維持システムとも深い関わりがあると言えますし、むしろ「生命維持システム」とは気の巡りを説明したものとも言えますね。
 
 
人間がまだ野生に近く、脳の発達もそれほど進んでおらず、本能というサバイバルシステムだけで生きていた頃。
 
脳は言語によって発達していきますから、どういうコミュニケーション形態を取っていたかにもよりますが、もしもボディランゲージやテレパシーが使えていたとしたら言語は不要ですから、「死」というものも概念的ではなく直接的な事象として体感していたと思われます。
 
ただし、生命維持システムが発動していれば、無意識に死を恐れる感覚はあったと思われます。でなければ今まで生き延びてはいません。
 
この「恐れ」こそが、命を守る原動力となり、直感が鍛えられ、身を守る術を学び、群れることを覚え、その延長線上で発達した脳を手に入れ、複雑なものを徐々に扱えるようになったのでしょう。
 
 
そして驚くべきことに、この「恐れ」は今も健在、ですよね。
 
お金の不安も、紐解いてみれば「死への恐れ」から来ています。
つまり未だにホモサピエンスは、生命維持システムによって生きていることがわかります。
 
だから「健康」が「グッド」になるワケです。
 

 
陰陽バランスの観点から言うと、たとえ「不健康」な状態だったとしても、その中にも陰陽バランスがあります。
 
バランスが取れていれば、気の巡りが良い状態なので、不健康だったとしても心穏やかでいられたり、自己治癒力もおそらく機能していくでしょう。(医療関係者じゃないからね、エビデンスはありませんよ、念のため)

人間はあまりにも「見えているもの」に囚われていると、冒頭で書きました。
「健康か、不健康か」の判断も、目に見えるとか具体的に確認できる症状でしか判断されていない、ということ。
 
その奥にある「気の巡り」まで至ってない。
それを取り入れているのが「東洋医学」「予防医学」と呼ばれているものですが、私個人的な見解としては、結局「それを取り入れる側の状態」によって結果が変わるので、東洋医学や予防医学を取り入れてるから大丈夫、とはなりません。

 
生命維持システムの上に乗っかった脳みそは、相変わらず「生存確率をいかに上げるか」で機能しています。それはとても利己的です。
人間のことしか考えてないから、地球とのバランスが崩れました。
 
つまりね、「生きる」ってことの裾野を広げなくちゃいけない。
人間だけで生きてないのだから。
 
ガイアやホリスティックなどの捉え方は、希望ですが、それとても本質的でなければ二番煎じに過ぎません。
もしかしたら、本能で生きていた時代の方がよっぽど、地球と共存できていたのかもしれません。
 
 
どうして今のようになってしまったのか、その全ての理由は「言葉」にあります。もっと言うなら、「理解力の浅さ」です。
 
「理解」とは言葉によって導かれますが、実は体感がベースにあります。
決して理論だけの「理解」はありえない、ということ。
 
それはつまり、これまでの人類(ホモサピエンス)の歩み(体感)を振り返るということですし、これまでに蓄積された知恵を集結させ、そこから一段深く学び取って行くといくことに他なりません。
 
 
唯一自らを顧みることができるのが、人間なんです。
 
その能力を、今使わずしていつ使うの?という具合です。
しかも人類全体規模で、求められている感じ。
地球レベルは、全体レベルですからねー。
 

 
くどくどと書いたけど、オチは実はシンプルで。
 
「恐れの受容」だけだったりする。
 

行き過ぎた生命維持システムを止めるには、心からの「感謝」と「労い」だと思うんですよね。これまでの軌跡に対して。
 
それは自分の過去を受け入れるということでもあり、
起こったこと全てを良しとすることでもあり、
体験から学び取った上で、全ては調和していたことへの気づきでもあり。
 
はるか昔から連綿と続いてきた「活動」に終止符を打てるのも、やっぱり人間なんだなと思う次第。終活的な。笑
 
 
そんなフェーズにいるのかもしれませんねー。
信じるか信じないかは、あなた次第(笑)
 
 
読み返してみて、着地までの流れがいささか強引で早急な感も否めない、そんな文章になってしまいましたが、あしからず。

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