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このいぬと出会ったのは、もう13年か14年前になるとおもう。いきなり家にきて、唐突に家族になった。ちいさくて丸くて、毛がふさふさで、わたあめみたいなだ、とおもった。ぼくは動物がすきだったから、それから毎日がたのしくなった。とにかくかわいかった。どの角度からみてもかわいくて、つい長いあいだ見つめてしまったことが何度もある。理解されていないとわかっていても、いくつものことばを話しかけた。

祖父は最初、いくら小型犬だとはいえ家で飼うのはどうかとおもうと反対した。だからたしか、最初は家のそと、倉庫のなかにゲージを設置して飼っていたのだ。雷雨の日、そっとのぞきにいった。ちいさなからだを震わせて、こちらをみていた。目がうるうるとしていて、あめだめのようだった。

そして、いつのまにか家のなかで飼うようになり、祖父が溺愛するようになった。ひとって変わるんだな、とおもった。いぬは人懐っこくて、よく僕らの周りをうろうろした。まるで人間のように、布団のなかでいびきをかきながらねむった。ずっとこの時間がつづけばいいのに、とおもっていた。

高校生のころのぼくは、毎日が本当にしんどくて、だからいぬの存在にはどれだけ救われたかわからない。居間でバタンと倒れるかのようにねていると、顔のちかくに寄ってきて、頭をなめたりした。やめろよと笑いながらいっても、その声はいつもとどかない。いぬが来てから、前より家があかるくなり、みんなの仲もよくなったようにおもう。ぼくにはいぬが天使のようにおもえてならない。もうずっと。

あれから10年以上がたち、泣き虫だったぼくは少しつよくなった。もう10代ではなくなったし、好きな人ができたり別れたり、なにかを手に入れたり失ったりして、それなりに大人になったのだ。10年。はかなくて、ぶあつくて。ほんと、あっというまだったようなきもする。

当然、いぬも10年ぶん歳を重ねている。あれほどしろくてまるかったいぬも、少しやせて、シミも出てきて、目の中央部はとうめいになっている。目があうたびに、さびしいきもちで襲われる。そのとうめい部分に自分がすい込まれて、どこか遠くへきえてしまいたくなるような。はじまりがあればおわりもある。そのおわりのことを、とうめいの部分をとおして考えてしまうのだ。

むかしと比べて、耳もわるくなったようで、宅配便のひとにたいして鳴くこともすくなくなった。そもそもひとが来たことに気づかないのだ。ずっと布団にくるまって寝ている。1日のうち、20時間くらいは寝てるんじゃないかとおもう。

いつだか、一緒に散歩をしてたとき、ぼくはふざけて走ってみせた。いぬも負けじと全速力でついてくる。かけっこ勝負はいつもどっこいどっこいだった。公園でおもちゃを投げると一目散にとりにいったし、それを何度もくりかえした。いつからだろうか。もう散歩にもいかなくなった。もちろん、公園にも。きっと腰がおもいのだとおもう。

もし100年後とか500年後とかにまた会えるとしたら、かたちを変えて、ぼくの前に現れるとおもう。その時はぼくもかたちが変わっている。ぼくらは目と目をあわせて、ぼくは、なんだか懐かしい感じがするね、もしかしてどこかで会ったことでもある?なんて言うのだろう。でも君は、そんな気もするけど、どうせ気のせいだよ、などと言って微笑するにちがいない。ぼくらは遠くへドライブへでかけて、どこかの公園にはいる。公園でいぬと遊んでいる家族をみて、いいね、ああいうの、ほら見て、あの犬、元気だね、なんて言いながら、そっと手を繋ぐのかもしれない。その手のあたたかさ、なつかしさは、きっと気のせいではないのだ。きっと、きっと。


−ブログやメルマガに書くまでもない話
(by 20代起業家)

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