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たまにじぶんが透明人間のようだと感じるときがある。特定の条件下において、それはまれに発動する。そのあいだ、あぉ、またこれか、と、もう何十回も何百回もくりかえしてきた記憶がよびおこされる。とうめいにんげん。それはじっさいに実在するのだとおもう。

たとえば、そこまで親しくない人もまじった状態の3人、4人、5人というあつまりの中で、ぼくはどんどん言葉を発さなくなり、しだいに浮いてしまう感覚がある。あまり発言もしないから目立たないし、それによって目もあわない。そこにいるのに、いないような感覚。だったら最初からいなくてもいいじゃん、じぶんがここにいることで何がかわるのさ、と思ってしまう。たぶんこれはもう10代のころからずっとそうだったので、今後もつづいていくとおもう。その集団にとけこめているようでとけこめていない感じ。じぶんだけ透明になってしまっているような。ハラハラするし、ときには冷や汗をかく。そのことにはだれも気づけない。

とくに自分はLGBTだったこともあり、学生のころなんかは、むしろ透明人間の方が都合がよかったようにもおもう。あまり目立って本当のことがバレてしまったらたいへんなことになる。自分を隠していたし、ずっと外側にうすい1mmの膜をはっていた。いつからか、その膜の中にとじこもり、外側にいるひとたちを拒んでしまった。本当のことがバレないように、つねに気を張っていた。神経をとがらせて、じぶんをいつわって、うそばかりついて、都合がわるくなると透明人間になった。

いまはむかしとは違くて、あのころよりはじぶんらしく生きれているのに、やっぱり透明人間になってしまうときがある。そんなときは毎回過去のことをおもいだす。結局じぶんは何もかわっていないんじゃないか、ずっとあのままじゃないか、と。

結局、透明のまま在りつづけることは結構しんどくて、僕はずっと、あなたは透明ではないよ、そこにいるじゃん、大丈夫だよ、と言ってほしかったんだとおもう。多分、ただそれだけだった。そしていま、そんなことを言葉にしなくても、それが伝わってくる人たちがいる。そこでのじぶんには色があり、たくさん目も合う。ふと足元に目をやると、じぶんはじぶんの足で立っていることがわかる。いのちをうごかしている。この文章をキーボードに打つ手も、肌色をしている。血がかよっている。右手の爪で左手をきずつける。小さな痛みがおそう。大丈夫だ、ちゃんと色を持って生きている。


−ブログやメルマガに書くまでもない話
(by 20代起業家)

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