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あれほどむだで、ゆるやかな時間がすぎていった4年間はほかにしらない。なにもなかった。自分のなかにもなかったし、外側にも、ぜんぜんなかった。

よく大学生活は人生のなつやすみとか言うけど、たしかにあれは、本物のなつやすみだったように思う。いまもやすみみたいなものだが、あのときのような独特なじかんの流れかたはしていない。まるで別なのだ。ことばにするとちっぽけになってしまうが、あれはたしかに、他とはべつの世界で、しずかでおだやかなじかんが流れていた。

ぼくらは結局、中途半端にしか授業をさぼれなかったし、どこにでも行けると言っておいて、びみょうな距離しか移動できなかった。いつもおなじ道を登下校し、いつもおなじような感情をいだいて。どこにも行けず、おかねもなくて、あるのは膨大なじかんだけで、そのじかんの使い方もわからなかった。

よく学校おわり、仲良しの4人グループでゲームセンターにいった。閉店まぎわまでゲームにのめり込み、それから、1時間をかけて家にかえった。なにもなかったけど、毎日ばかみたいに笑っていた。なにがあそこまで楽しかったのかわからないけど、授業中でもげらげら笑っているせいで、怒られたことも何度かあるくらいだ。

学園祭ではわなげ屋さんをやった。だんぼーるとペットボトルと新聞紙でつくった。たくさんのちびっ子たちがきた。ずっとずっと笑っていた。あのときはこの時間がかけがえのないものだと気づく予兆すらなかったし、こんな時間が永遠につづくんだろうなとなんの根拠もなくおもっていた。そう考えると、ちょっとあっけなったようにもおもう。

起業してからだろうか。むだな時間をすごすことに嫌気がさすようになった。生産性や、リスクとリターンばかり考えるようになって、いつのまにか、空白のじかんを楽しめなくなっている自分がいたのだ。そう、あまりに空白で、あまりに何もなくて、静かで、ゆるやかなじかん。

いろいろな経験をしていま思うことがある。むだで、どうしようもなくて、泣けるほどに退屈だったあの日々こそ、ほんとうのしあわせがたくさん詰まっていたこと。むだこそ、余白こそ、こうふくだということ。大学生活の4年間にたいして、むだだったなぁ、と、なかば独り言のように話すこともあったが、実際のところ、むだではあったが、あれほどしあわせな時間はなかなかないな、ということを今なら思うのである。

愛も、むだを受け入れて、むだを楽しむことだとおもう。愛とか恋とか、そういう類のものはまだわからないことだらけだが、ふつうに考えたとき、恋愛はそれなりにむだなことがたくさんある。たとえばご飯をつくったり、掃除をしてもらうのも、おかねを払えば済むことで、わざわざあーだこーだと喧嘩をしながら恋人にやってもらったり自分でやったり、というのは非効率である。でも、ひとはだれかに恋をし、愛してしまう。むだを受け入れて、むだすらも愛してしまう。

そうおもうと、あの大学生活の4年間は、むだばかりで、でも愛にあふれていて、きっともう手に入らなくて、すごくうつくしい時間だったのかもしれない。渦中にいるときはまったく気づかなかったけど、きっとあれは、むだであふれた愛の時間だった。もうあのときの感覚はうしなってしまったので、いまから大学生にもどったとしても、あの時間は二度と手にはいらない。きっとするりと指のすきまから抜け落ちていく。あの時間を、日々を、もっと愛するべきだった。もっとみんなとむだを共有するべきだった。さようなら、ありがとう。

−ブログやメルマガに書くまでもない話
(by 20代起業家)

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