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台湾 と わたし

私が台湾を訪れたのは2018年の夏。今からちょうど4年前くらいのことである。今のこの時期になると京都は湿気で毎日蒸し暑く、その暑さで台湾へ行ったときの記憶がよみがえる。今年もあの旅はよかったなぁと、最近思い出してカメラロールを眺めていた。そしてふと思ったのが、あの旅はわたしのターニングポイントであったのかもしれないということだ。

2018年夏。私は大学4回生だった。もやしもんという漫画を読んで興味を持った微生物を学ぶ研究室に希望して入った。上回生が卒業した後は学生はわたし1人だった。研究に行き詰まっていたこともあったが、ここの教授は嫌味がひどく、しかも学生がわたしだけということもあり、攻撃が自分にすべて降りかかる日々だった。学校に行きたくないという感情を持ったのもわたしとしては珍しく、このときくらいだと思う。研究室のFacebook にも悪口を書かれたり、面と向かって「君は社会不適合者だから就活は厳しいよ」などと言われたり、研究内容のこと以外についても否定的に攻撃されたのがとても嫌だった。研究室での活動に嫌気がさし、渋々行くと決心した高校での教育実習でさえも、研究室との関わりをある一定期間絶つことができ、毎日嫌でも顔を合わせなければならないおっさん(教授)ではなく、同じ実習生である同世代の人との関わりが持てるという意味でとても救われたイベントだった。大学4回生の前期はわたしの大学生活のなかで1番つらい時期であった。相談できる研究室の同期や先輩もおらず、こんな嫌味を言われたと親に相談しても「冗談やろ」の一言で、とりあってもらえず、とりあえず苦しかった。

そんなわたしはここから逃亡したいという気持ちが次第に強くなっていき、構内の海外留学情報の掲示板をチェックするようになった。学校が主催している留学なら、教授も海外旅行で遊んでいると言い難いと思い、合法的に海外逃亡が可能だと思ったからだ。その掲示板で見つけたのが台湾でのサマーキャンププログラムだった。2週間ちょっとやし、台湾って学生に人気な観光地やんな、という軽い気持ちで応募した。全ては暗黒研究室生活から逃亡するために…!!

参加する動機が不純だったため、特に台湾について詳しく調べたりもせず、自分の学校から参加する他の学生が誰なのかとか、自分の知ってる人が参加していないけど大丈夫かなとか、余計なことを考えず、ただ台湾に行った。人見知りではあるけど、初めて会った人とコミュニケーションがとれないほどではないから、全然知らない人たちだったけど関西空港で待ち合わせて、台湾まで行くことができた。2週間ちょいの国外逃亡が成功したのだった。

ただ台湾に行っただけだと述べたが、この台湾の旅行の前にわたしは不思議な夢をみた。薄暗く、通りに面している店の中に古い古書店があった。黒を基調とした外観で、2階より上の階に本が置いてある店だった。わたしはその店の2階に上がって、本をみていたのだが、階段の踊り場の壁に不自然な筋が入っているのをみつけた。その部分を押すと、ショーケースが現れ、そこには高級そうな古書が保管されてて…という夢だった。台湾には行ったこともなかったのに、この夢の風景は日本ではない場所であることは間違いなく、実際に台湾に行ったときに似たような場所をみたことがあるな…という感覚になった。この旅行の後にテレビでみた台湾特集で同じような店が出てきたときは少し驚いた。このときすでに台湾に行ってみなさい…と暗示をかけられていたのかもしれない。笑。

話を戻して、国外逃亡が現実味を帯びてきたため、わたしは飛行機に乗る前からウキウキしていた。研究や教授との面倒事を考えなくて良い、ましてやわたしは海外にいるから連絡も取らなくていいという解放感でいっぱいだった。同じ大学から参加する人も下回生の初対面の人ばかりだったが、そんなことは気にならないくらいに羽が伸びていたし、わたしは割とどんな状況にも対応する能力があるのかもしれないということに気づいた。

台湾に着いたらとにかく蒸し暑かった。スーツケースをえっちらおっちらと転がしながら、知らない街を歩いて、わたしたちは台湾科技大学に向かった。道がわからずかなり遠回りしていたのかもしれないが、外国にいるという雰囲気でそんなことは気になっていなかった。ようやく大学に着くと、現地の学生さんが出迎えてくれた。そして早速渡されたのが、今も一人暮らしの妹の家で活躍している寝袋である。この研修の前に国際科の人から聞かされてはいたが、寝袋18日間生活は実際に体感してみないとその苦しさがわからないものだった。

この前みたチコちゃんに叱られるでは、苦しい記憶は楽しい記憶よりも鮮明に覚えているのはなぜかと問われていた。ヒトは苦しい状況に直面したとき、次に同じ失敗を繰り返さぬよう、周りの物事を注意深く観察するため、苦しかったことのほうがより記憶に残りやすいらしい。この旅行もそうであるのかもしれない。楽しいことはたくさんあったのだが、それを凌駕するほどの苦しみもあり、わたしにとっては忘れられない旅となったのだ。

何が忘れられなかったか、それは観光でみた絶景や、日本ではなかなかみられない夜市などさまざまあるけれど、これらを抑えて堂々の1位を飾るのは、学生寮生活である。聞くところによると30,000円で1年間入寮できるらしい学生寮で18日間生活した。これがなかなかにハードだった。まず大学に着いていきなり渡された寝袋である。二段ベッドの板の間にペラペラの寝袋を敷いて過ごした。初日は2時間毎に目が覚め、次の日の授業は超眠かった。この前見返した日記にも毎日「今日も眠い」と書かれていて、笑ってしまった。次は水回りのストレス。バスタブがないことも疲れを癒すことができずかなりつらかったが、それ以上にシャワー室が砂だらけで、参った。日本ってほんとにトイレが綺麗だと思った。大学にあるトイレも覚悟を決めないといけないほどのものであった。まずペーパーがどこに行ってもない。どこのトイレも大概ゲンナリするものであったが、台湾の有名な小籠包の店、鼎泰豊のトイレには感動した。ちゃんとペーパーが備え付けられていたし、芳香剤のいい香りがした。寮の水回りが劣悪環境だったこともあり、鼎泰豊のトイレは綺麗であることへの喜びを、同じ寮のメンバーとわかちあったこともあった。笑。

劣悪な生活環境で少し慣れたころにはもう研修の終盤になっていたが、学生寮生活は私にとってとても新鮮だった。生まれてこの方、未だに実家を離れたことがなく、一人暮らしもしたことがなかったのに、いきなり初対面の人と生活を共にすることになったからである。同じ寮には国籍の違う学生や、日本の別の大学からの学生がいた。毎日それぞれの班ではどこを観光したのか、何を食べたのか、それぞれの大学では何をしているのかなど本当に他愛もない話だったが、当時の自分にはこういう時間が不足していた。風呂上がりに台湾ビールを飲みながら、それはそれは楽しかった。この頃のわたしは限られたコミュニティ(研究室)のなかで限られた人間との関わりしかなかったため、自分の置かれている状況・環境を客観視できなくなっていたのだなと思った。参加していた他の日本人学生の話を聞いていると、研究を頑張るのはもちろんのことだが、そればかりを教授の嫌味を我慢しながらやるのが、果たして有意義な時間の使い方だと言えるのかと疑問に思えてきた。学生という限られたモラトリアム期間を、何かに抑圧されて怯えながら過ごすのは間違っているし、その抑圧に耐えるばかりが偉いのではなく、自分にとって「逃げる」ことが最善の策なのであれば、その手段を講じて状況を打開するのも一つの手なのだとわかった。この場合、結果的に「逃げる」ことになっても、考えた末の結論であるため自分以外の人にとやかく言われる筋合いはないのだ。ということに気づくことができた。これはわたしにとっては大きな成長であった。

日本への帰国が近づくに連れて、かなり憂鬱な気分になった。しかし、台湾のサマーキャンプで出会った人たちからいろいろな刺激を受けて、あんなくそみてぇな教授の嫌味を我慢して研究しているくらいなら、心機一転、新しい環境でもう一度やり直してみようという気になっていた。観光で訪れた十分では願い事を書いたランタンを空に飛ばすのが有名なのだが、わたしはここに「学生生活が楽しく過ごせますように」とかいた。切実な願いだった。観光に出かけたり、美味しいものを食べたりという体験が久々で、ましてやそれが異国の土地でのこととなるとさらに久々で、結果的に自分の想像してたこと以上に台湾を楽しんだ。ただ研究室が嫌で嫌で国外逃亡するために参加したサマーキャンプだが、今まで断絶されていた研究室外との関わりをこの台湾という地で取り戻すことができた。しかし、帰国の日は刻一刻と近づいていた…。

帰国するとフカフカの自分の布団で寝ることができるが、今後の研究室のことを考えなくてはいけないということが天秤にかけられ、複雑な気分だった。毎日楽しく話した寮の友達ともお別れになるし、おいしくて安いタピオカミルクティーを飲み納めなければならないのも悲しかった。帰国する数日前は帰ってからのことを考えていた。「逃げる」という選択肢をとるのはなかなか勇気のいる行動だった。研究がうまくいかないから逃げるのは根性がないと思われるかなとか、研究室を変えたところで結果が出るかはわからないとか、変わった先の教授と自分の相性がいいとは限らないとか、先行きが不透明で漠然とした不安があったからである。しかし台湾にいったことで、さまざまなカルチャーショックを受けながらも、慣れない環境への適応していく能力が高いかもしれないということに気づき、この先周りの環境が変化しても自分はなんとかやっていけるかもという根拠のない自信がついていた。

帰国するためのチェックイン時に荷物を預けた。するとなんと荷物が重すぎると忠告を受けた。「まじか、やべぇ」と急いでスーツケースからお土産を機内持ち込み袋に詰め直したが、それをみかねたCAのお兄さんがOKといって、ヘビィとかかれたシールをわたしのスーツケースに貼り、荷物を受け取ってくれた。何故こうなったかはわかっていた。寝袋だ。わたしは捨てて帰ると言ったのだが、母が持って帰ってきなさいと言ったから渋々持ち帰ることにした。他の寮生は捨ててたのに、わたしは無理やりスーツケースに詰めたからこんなことになったのだ。しかし今でも時折活躍してるのをみると、まあ持って帰ってよかったかなという気持ちにもなる。帰りの機内でビールを飲んだのをよく覚えている。わたしがすきな一番搾りであったから一本もらったら、空の上で高度が高かったからかめちゃくちゃ気持ちよく酔っ払った。そのまま昼ごはんを食べたあとぐっすり寝た。寝袋18日間生活の疲れがあったからかもしれない。

寝袋

海外から関空に帰ってきたとき、わたしはいつも安心する。地に足がつかない状況ではなく、地面に足をついて歩いているというだけで安心する。ああ、わたしの帰る場所はやっぱり日本だなと思う。帰国後、わたしは行動を起こした。まずカウンセリングの先生に相談した。何が嫌だったのか、どういうことを言われたのか、これからどうしたいのかを話すうちに、今まで誰にもわかってもらえずモヤモヤしてた気持ちがはれていくのがわかった。誰かに相談するのはとてもいい方法なのだな。そしてすぐに研究室を移ることにした。担当の先生の対応が早かったから、帰国後数日で微生物の研究室を脱出できた。受け入れてくれた教授や、相談に乗ってくれた友達、移る先の研究室のメンバーには今でもとても感謝している。いきなり入ってきたよくわからないやつに優しく教えてくれてありがとう、涙。と。研究室を脱出する際にも教授には気持ち悪いことを言われ、それが今でも忘れられなくなっているが、人間というものの性格は周りがいくらどうこういったところで変わらないということを身をもって体感した。変わらないのなら自分からそういう人と関わらないようにするために、「逃げる」をすればいいのだと知っている自分は強いと思う。

わたしは「逃げる」の技を使ったおかげで残りの学生生活を有意義に過ごすことができた。研究も頑張ったが、休日や放課後少し早めに研究を切り上げて映画館に行ってみる気になったり、どこか喫茶店に行ってみようという気になったり、気持ちに余裕が出てきたのだ。十分で書いた願い事は叶ったのだ。今でもあの研究室で過ごした1年間を悔いることはあるが、時間はもう取り戻すことはできないから仕方がない。しかし、あの状況下にいないと海外のサマーキャンプに参加しようという気にはなっていなかったかもしれないなということを考えると、なるべくしてこうなっているのだなと肯定することができた。

ここはわたしのアナザースカイってほど大げさなものじゃないけども、台湾での体験は間違いなくわたしに大きな影響を与えた。異文化交流だけでなく、自分とは異なる場所で学生生活を過ごしている人はどんななのかを知ることができたし、自分のおかれている状況を客観視し、研究室が全てではないということに気づくことができたからだ。こうした意味でわたしの台湾への愛は強い。もう一度行ってみたいと何度も思うし、カメラロールを見返してはあの頃のことを思い出す。

京都の夏の蒸し暑さと台湾の夕立ち後の午後はどこか似ている気がする…とわたしは思う。風はあるのだけれど湿気を含んでいて、皮膚のペトペトした感覚がつきまとう感じ。今年の夏も蒸し暑さとともに、あの台湾で過ごした日々に想いを馳せ、人生の良い進路変更をできてよかったなと思うのであった。


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