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問いをもつこと

私の暮らしに「問い」はかかせないものだと思っている。

「これはどうなっているんだろう」

「なんで結果がこうなるんだろう」

「これはどれをさしてるのかなぁ」

「あなたはこれをどう考えていますか?」

わからないものは自分で調べる。本を読んだり、インターネットを開いてみる。あるいは他者を頼る。知人に聞いてみたりする。すぐ答えが出ないものも多いが、それはそれで長いスパンでじっくりと考え続けたりもする。

普段の生活でも、私は子供によく質問をされる。

私はそれを同じようにわからない場合は一緒に考えてみる。経験から学んだことがあれば伝えてみて、また一緒に考えてみる。

利用者さんのお家に行くとだいたい40分から1時間の間、対象者の方と1対1で時間を過ごすことになる。


私はその時間は私とあなたの間に

問い

を置きたいと思っている。

間にあるものはたくさんある。

それはやさしさであったり、心理的安全性であったり、作業療法であったり、あるいはケアである。

でも、何より私が間に置きたいのは

「あなた」

でもある。

私は「あなた」について考える40分にしたい。そしてあなた自身「あなた」について一緒に真剣になって考えてほしいと願っている。


そのために「問い」である。

あなたはあなたをどう生きたいですか?

それはもしかして....ある意味、相手にとってはとてもきびしいことを私は求めているのかもしれない。


「問うとはどういうことか」という本を読み始めている。まだ読み終えていないのだが、先日この本の発売記念イベントが代官山蔦屋書店で行われた。私は当日現地には行けず、配信もその時間は聞けないため、動画のアーカイブを視聴した。

永井さんと梶谷さんのお話はとても興味深く、今2周目に突入して拝聴している。

この本について、今日は取り上げていきたい。

以下は本の「はじめに」に書かれている、2021年、元首相でオリンピック委員会会長のM氏の発言が問題となったものを掲載した全文である。

 これはテレビがあるからやりにくいんだが、女性理事を4割というのは文科省がうるさく言うんですね。だけど女性がたくさん入っている理事会は時間がかかります。これもうちの恥を言いますが、ラグビー協会は今まで倍時間がかかる。女性がなんと10人くらいいるのか今、5人か、10人に見えた(笑いが起きる)5人います。
 女性っていうのは優れているところですが、競争意識が強い。誰か1人が手を挙げると、自分も言わなきゃいけないと思うんでしょうね。それでみんな発言されるんです。結局女性っていうのはそういう、あまり言うと新聞に悪口かかれる、俺がまた悪口言ったとなるけど、女性を必ずしも増やしていく場合は、発言の時間をある程度規制をしておかないとなかなか終わらないから困ると言っていて、誰が言ったかは言いませんけど、そんなこともあります。
 私どもの組織委員会にも、女性は何人かいますが、7人くらいおられますが、みんなわきまえておられます。みんな競技団体からのご出身で国際的に大きな場所を踏んでおられる方々ばかりです。ですからお話もきちんとした的を得た、そういうのが集約されて非常にわれわれ役立っていますが、欠員があるとすぐ女性を選ぼうということになるわけです。

「問うとはどういうことか」より抜粋

この文章を読むと、おそらく大半の人はもやもやする....と思う。

私もかなりもやもやしている。

このもやもやはさまざまな問いを生み出す。


梶谷さんはこのあとにこう続けられている。

 この発言は「女性差別だ」と批判され、本人はそんなつもりはないと言っていた。そのつもりがあってもなくても、女性一般を悪く言っていることに変わりないし、そのことは本人も自覚している。
 激しくなる非難に対して、本人からも他の人からも、不注意な失言だったとか、表現が不適切だったという釈明がなされた。悪意はなかったのだから許してあげようと擁護する人たちもいた。発言の一部だけを切り取って騒ぎ立てているという反論もあった。
 もちろん世の中には失言も不適切な表現もある。マスコミやSNSでは、文脈を無視して攻撃するのは日常茶飯事である。けれども、M氏の発言をめぐる問題は、そういうレベルのものではない。

 問題はむしろ、M氏自身はもちろん批判する側も、問うべきことをほとんど問うていないことだ。そのかわりに「女性差別」という分かりやすいレッテルを貼ってしまったせいで、もっと重要な問題が覆い隠されてしまった。発言をもっと丁寧に見て、疑問点を挙げてみよう。

ここでいくつか疑問点を梶谷さんは挙げている。

それはここでは割愛するが、その後このように続けている。

 細かい点を突っ込めば、他にもいろいろあるが、これくらいにしておこう。女性のことを明確な根拠もなくネガティブに言うのが女性差別だというなら、そうなのだろう。その気があってもなくても差別は差別だが、M氏がどちらなのかはさておくとしよう。もっと気になるのは別のことだ。
 M氏の発言の根底にあるのは、物事を進めるさい、話し合いに時間をかけるのはよくない、いろいろな人が自由に発言するのはよくないという考えだ。だから、女性もあまりしゃべらないなら、増えても問題はないのだろう。彼にとって物事は、誰かエライ人(たぶん自分)が決めたことをただ認めればうまく進むのであって、話し合いはできるだけしないほうがいい。
 もし、民主主義の社会において、性別や職業、学歴や身分など、その人の所属や属性によらず発言が尊重されるべきだとしたら、M氏の言っていることは、女性に対して差別的というよりも、いわば「反民主主義的」なのだ。

 しかも、彼個人の信念がどうであろうと、自分が公の場で話すことについて少しでも自問自答していれば、あのように素直に自分の思いを長々と吐露することはなかったはずだ。つまり彼には「問う力」が決定的に欠けているのである。そして問うことは考えることの基礎にある。したがって彼には「考える力」が著しく不足していることになる。

問うこと。
問う力について、梶谷さんはこのM氏の発言を例えに出している。

先日、おだんごさんの記事を拝読した。

内容については読んで頂けるとありがたいが、おだんごさんは、自身がお勤めの事業所の会議に参加している場面を今回のnoteで描いている。その中で

「私たちはとりあえずそこに参加してさえいればよい」


「聞かれたことに答えればよい。回を重ねるうちにそういう雰囲気がパソコンの中の小窓に映る参加者から漂うようになった」

と記されているように、会社の上層部からの「空気」みたいなものを感じ取っている状態である。

そこで彼女は、参加者に問うのだ。

私はこの会議の中で手応えが1ミリもありません。

私たちが求められて意見を述べることが、中長期の事業計画にどんなふうに反映されるのか、全くイメージができないんです。

このまま1年たって、この会議でこれを成し得たという具体的な何かを提示できなければ、会議に出るために協力してくれている現場の職員をがっかりさせてしまうと思います。

自分の首を絞めるようなことにもなりますが、一度zoomではなく、皆さんで会って話しませんか。

そして具体的に変えられるものについて焦点を定めて話ができないでしょうか。

と。

そして、まわりは静まってしまう。

彼女は具体的にまわりへ問いを投げかけている。

会議はこれでいいのだろうか。

これは「会議のための会議」であると読んでいて私はとらえた。

忙しい中でわざわざみんなで時間を共有して、会議をするために会議をしている場合ではないと、彼女はおそらく問うているのだ。

しかし、反応は「画面が静止画に見える」ほど、薄いものであった。


「問うとはどういうことか」の本でも、最初の章で取り上げられているのは
「私たちはなぜ問わないのか」についてである。

その理由の一つとして
・問うのは基本歓迎されない
と書かれている。

問いというのは歓迎されないのだ。
あらかじめ決められたゴールに向かってまっすぐシュートを放つこと。その間のパス回しは不必要であると「エライ人」は考えている。

この本では学校教育における教員と児童のやり取りでもそのような場面があると捉えて例えを出している。

児童に何か問われても「校則だから」とか「ダメなものはダメだ」と教員は返し、下手したら児童は問題児扱いされてしまう。

 そのさい「今の子どもは考える力がない」ということが大前提になっていることが多く、大人たちは、まるで、自分たちには考える力があるかのように言う。自分のことは棚に上げて、世を憂い嘆く。
 しかし先述の例を見れば分かるように、考える力が弱いのは大人でも同じことで、人生経験の長短に関わらず、日本の社会全体に見られる症状である。長年生きているのに身についていないぶん、大人の方が深刻かもしれない。

考えることは問うことに基づいている

と著者は言う。問いの質と量が思考の質と量を決める。要するに考える力をつけるために重要なのは「問う力」である。

会議については私の友人noterさんのゆうゆうさんが、面白い記事を書かれているので、興味がある方は読まれるといいと思う。



会議が報告することから始まることさえも、私はどうかと思っている。

大きな会社ではなかなか意思疎通が図れないのは当然であるとは思うが

小規模の会社なんてそれこそ普段からお互いに進めあっていること、困難なこと、進んでいきたい方向性などは、少なからずとも共有して然るべきであると私は個人的に思っている。

その中でよい問いを投げかけていくことは、お互いにとって必要不可欠であると思うし、M氏のような「反民主主義的」な考えに陥らないためにも、日頃から知的好奇心や違和感に対して「おや?」と思えるような感覚を今後も養いながら、人に伝えていきたいと感じた。

本日は問うことについて、考えてみた。

おだんごさんの投じた一石が今後どのように波紋をよぶのか。新しい流れを作り出せるのか。私は彼女の「問う姿勢」を心より応援したいと思っている。

そして、私もまた日々の臨床や、スタッフなど仕事に関してはもちろんだが、子どもたちとも「問い」をお互いに発言し合って考えを深めていきたい。今はそう感じている。

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