瞳
「この家を守りたいんです。
夫がいたこの家に、私は住み続けたい」
そう言いながら彼女は一筋の涙を静かにこぼした。
私たちはさっきはじめて会ったばかりの人間だったが、私は彼女の涙が美しくて、その時はただ見惚れるばかりであった。
もうしばらくも前のことだ。
その日は仕事で、初めての訪問リハをご利用になる方のおうちにおじゃました。それが冒頭の彼女の家だ。
2階建ての一軒家。道は直角になっていて、その家と家の奥に車一台がやっとぎりぎり通れるくらいの幅のコンクリートの傾斜の入り口をのぼると、小さな庭が広がっていて、2階まで高さのある大きな木と、花壇の紫色の花が目についた。
彼女は数年前に目が全く見えなくなった。
感知するのはわずかな光だけ。
ひとり暮らし。
お子さんはいなかった。
夫が急な病気で亡くなったあとも、彼女は見えない世界の中で、ひとりで黙々と生活を続けていた。
今回のリハ依頼は「今、続いている自宅での生活がなるべく長く続けられるように」という内容であった。
歳を重ねると、誰にでも訪れる筋力や体力の低下。彼女だって例外ではない。
ましてや、目が見えないため、自宅での生活が主となる彼女は、生活範囲がどうしても他の人より狭くなってしまう。今後、彼女にも訪れるであろう機能低下を予防したいとケアマネジャーより話があったのだ。
そして冒頭の部分に戻る。
彼女は夫を愛していた。
いや、過去形ではない。
「愛している」のだ。
週1回の訪問リハがはじまり、私は彼女の生活ぶりに驚いた。
調理は、冷蔵庫の場所とにおいと触感で、何の調味料か何の食材かわかるらしい。和食をベースとした健康的な料理を、彼女は毎日作り続けていた。
掃除は床をはいながら手探りでゴミを確認していた。彼女の家は、端から端まで階段の隅々まで、いつもきれいに整えられていた。
洗濯も1人で行っていた。干す動作、たたむ動作
、しまいには布団カバーをかける動作も自分でわかるように工夫して、器用にこなしていた。
買い物と、届いたハガキや書類の内容確認だけはヘルパーに頼んでいた。
庭先の花々は、毎日水をやり、適宜肥料をあげていた。
「ねえ、今玄関先に〇〇の花が咲いてるでしょ?」
私は玄関をあがっていつもリハをする和室に向かう際に、彼女に言われたセリフにどきりとした。
確かに...花は咲いていた。
「見えないのになぜわかるのですか?」
と問うと
「だって毎年あそこに咲くんだもの。この時期だからね」
とけたけたと少女のように無垢に目を閉じたまま彼女は笑うのであった。
2階に1度だけ上がらせてもらったことがある。
彼女は「ねえ、富士山は見えるかな?」と私に尋ねた。私は「今日は見えませんね。桜の葉っぱが生い茂ってますね」と答えた。
「そっか〜。よくね、夫とこの風景を見たのよ。左に青い屋根のおうちがあって、桜があって...今でもね、よく見えるの。うそみたいでしょ。見えないんだけども、私には見えるの」
「夫がいなくなってさみしいなと思う。でもね、こうやって見た風景や思い出を私は留めておきたいの。目が見えないのにひとり暮らしだなんて、だいたいみんなに反対されるのよ。けれども、ちゃんとできるよ、家を守ってるよってことを続けていきたいんだ。それが私の願い」
この家で彼女はひとりぼっちではなかった。
亡くなった夫と「2人で」ずっと過ごし続けていた。
彼女のリハは訳あってしばらくしてから終了となった。
私はこの彼女のことを時々思い出す中で、ある創作の話を書き上げた。
そしてあるnoterさんの私設グランプリに応募させてもらった。
瞳は何をうつすのだろう。
うつしていなくとも見えるものがあるのではないかと、信じるような祈るような気持ちが、私の内面に、たちあがることがある。
目について。
時々誰かに言われる。
目が印象的だと。
私の目は黒が一段と濃いのかもしれない。
夫の目を覗いてみると、思った以上にまわりが茶色で色素が薄いことに驚く。娘もそうだ。
息子は私に目元が似ている。
まなざす瞳は何をうつすか。
「あなたの目はきらきらしてるよ」
そうやって笑顔を向けてくれた人に対して、私はいつも思うことがある。
私の目がきらきらしているわけではない。
きっと私がうつすこの世界が
あなたが
風景が
その想いが
一瞬の光の通り道が
きらきらしてるんだ。
瞳にうつすもの。
いずれなくなって
見えなくなるからこそ
美しいものなのだと。
それは、あの日の彼女の涙のように。
みえない世界と
みえる世界が
交差して
また照らし合わせる日が
きっと訪れる。
そう思っている。
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