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ぐるぐるとバターにならぬように寅年のふりかえり

もうすぐ今年も終わる。

寅年よさらば!

卯年よこんにちは!である。

40代になってからの一年....そして半年。

思ったことは自分は「まだまだである」ということである。

ざっくりとしているが、ひとことで言うとまあ、だいたいそんな感じだ。まだまだだなと感じることは公私ともに数多くあった。

あらためて鷲田さんの「『待つ』ということ」を読んでいる。

やっと読み終えたが、読み終わるまでかなり時間をかけた。

私はどんどん本を読み進められるタイプではない。同じ本を繰り返し繰り返し読んでいる。

一回読んでも頭がポンコツなので、理解できないということもある。

読み直すと、以前と違う箇所にひっかかったり、同じ箇所でも違う色合いの感想を持ったりすることもある。

不器用だなと思うが、本を読むことは誰かに課せられたり、期日を設けられている訳ではないから、これでいいと思う。


私にとって、読書はかなり「切実なもの」である。

趣味というにはなんだかしっくりいかず…..生きていくために必要な一つの資源というか、方法というか、なくてはならないものであるかもしれない。それは、毎日お水を飲むように….毎日日の光を浴びるように….私にとっては大事なものなのだ。

今日取り上げる箇所は、仕事に深く関係している内容だ。でも私生活でもそのような場面がない訳ではないので、自分のためにここに記す。

著書の中で、鷲田さんは精神科医の春日武彦さんの事例を取り上げている。

 理屈からは、娘と父とを引き離すことが望ましい。だがそれをすぐに実行することは難しい。悶着を起こさずに離すことはできまい。強硬手段に訴えたら娘は逆上するだろうし、人権といった問題に照らしても厄介そうである。それに現在の精神状態では、娘を強制入院させるほどには病状が悪いとはいえない。しかもいくら支持的かつ受容的にヘルパーが振る舞ったとしても、そうやすやすと娘が心を開いたり率直に助言に従ってくれるはずもない、それが可能だったら、とっくに父娘の引き離しは実現しているはずである。
 したがって結論としては、過去の類似症例にあったように、娘の精神状態が悪化して強制入院につながるか、父親の身体状態が悪化して救急車(さもなければ霊柩車)を呼ぶことになるか、そのいずれかしか展開はないだろう。言い換えるなら、積極的な働きかけでこちらの思惑通りに事を運ぶことは(すぐには)無理なケースなのである。
 となれば、あとは自然にチャンスが訪れるのを待つだけである。
「待つ」ということ

これは統合失調症を患っている中年の娘と認知症の父とが生活保護を受けつつ、二人暮らしをしている事例だそうだ。

これを読んで…「ああ、こういうケースはめずらしくないな」と思う方は、もしかして、私と同じような業界で働いている人かもしれない。あるいは家族や親戚に似たようなケースをかかえていた人かもしれない。

こういうどうにもならないことってある。

一般的な改善策は思いつく。

けれどもそれが通用しないことはままある。

一人暮らしの認知症の女性の方が、別居している夫から家の物品を片っ端から窃盗され続けていたり、失禁していてもそれに気づかず過ごしてしまったり、嫁との仲が悪くて介護を放置されて、家族の意向で施設へも入れず….在宅では介護サービスの限度額を超えてしまうので、結局今のままで支援でいこうとなったケースを思い出した。

(夫に盗まれないように)食料品を鍵付きの入れ物にいれて….ヘルパーさんがそのたくさんある鍵の暗証番号を覚えきれないといった話を横で聞いていて、何とも自分の無力感を感じてしまった。

どうしようもない。

どうしようもないけど、今の状態は「よろしくない加減がまだ生ぬるい」のだ。

 このケースにおいての問題の本質は「精神疾患を患った娘を説得するコツ」にあるわけではない。意表をついた解決策があるわけでもない。現在は膠着状態であるが、それは状況がたしかに「よろしくない」のだけど、その「よろしくない」加減がまだ生ぬるいということである。残念だが今はまだ手が出せない。だから自然の展開を待つしかない。
 一般的に援助事例には、不幸な結末を招かないように早めに手を打つべき場合と、多少なりともじっさいに不幸が訪れないと手出しができない場合の二つがある。人情としても、また責任問題の観点からも、つい前者に準じて考えたくなるが、そうとばかりは限らないのが現実である。後者がこのケースに当てはまる。

私の出会った先程の方は、結局入院して、歩行が困難になり、その後施設へ入所する顛末となった。

そうならないと動けない。

その方にとって悪い状態になるまでじっと見ているしかない。

じゃあ、援助者は必要ないのか?

いや、そうではなく、局面が変わるのを見ている人が必要なのである。

そうした機会をのがさないようにすることが肝要であったりする。

いかに腹を据えて事態を見守っていくかが大事だということ。

確かにそういうケースはあるなと感じる。

そして、私は比較的仕事も含めて(現状では)援助者になりやすい立場なので、この「腹を据えて事態を見守る」志や術をどのように会得したらいいのかということに、大変関心が高いのである。

こんなことをぐるぐると考えていると、小さい頃に読んだあの絵本のように、ぐるぐると虎たちがまわりすぎてバターになってしまいそうだ。

頭がバターになってしまっては大変なので、私は何とかそこから外に抜け出したいと思う。

読書はその一つの方法でもあり、

スプラトゥーンに興じるのも一つであり、

子供と遊ぶのまたその一つでもある。

この本には少しヒントが書かれていた。

まずは、援助者が急いてしまってはいけないのだ。
患者さんなり利用者さんを扱いが楽になるようにコントロールしてはいけない。援助者が自信がないとそんな気持ちが立ち上がってしまう。援助者の不安やあせりは、援助される側はカンケーないのだ。むしろ余裕というか、へこみのような空白があると、プラスのかたちで相手に伝わることもある。

そして、あえて本質にふれない時間を持つこと。
少し気をそらせること。焦燥感がつのるその行動を一時中断させること。

 待つとともにできる最小限のことというのは、援助者の現場ではこういう「逃げ道」のかたちをとるよりほかないのかもしれない。

しかし、こういう「逸らす」を続けてばかりいては援助者側も身がもたなくなる。あえて自分をある意味鈍感にしないともたない。

そこに対して書かれていたのは「最後はあんたの人生やもの」である。

この人生はわたしだけのものではない。

という見切りがケアする側、ケアされる側ともに思えること。

「わたしのあんた」という意識を脱落させる。

そして、「待つ」はほんとうはここから始まる。

この本では「待つ」を放棄してからがほんとうの「待つ」のはじまりだと書かれている。

偶然に身を委ねる。

「ひたすら待つ」をこそ放棄せよという西川は、しかしそれでも待っている。どうこうしないと決めるわけではなく、折りにふれてあれこれしながら、あれこれしたことの結果もとくに執着しないで、毎日の「生活」のためのありふれたいとなみをなかば試練として、なかば惰性でくりかえしながら、しかしなにか問題の消失への糸口というか手がかりといったものの出現を、待つことなく待っている…..これは何かに似ていないだろうか。

それは「窯変」だと作者は言う。

陶芸に携わる者が、こねた土の上に釉薬を塗る。
窯にそれを入れたあと、焼き上がるまで待つ。
どんな色が出てくるか、ときにどんな歪みがその形に現れるのか、それは作家の意図の外にある。

気に入った形が現れるまで陶工は土をこね、焼くということをひたすらくりかえす。

身を委ね待つということは、こういう自然の営みにもある。

私たちも自然の一部だ。

結果はどのように出るのかわからない。

結果の全ては自分ではコントロールできない。

人間は社会的な生き物であって

常にある一定の環境の中に置かれている。

私たちはただひたすら歪んだ失敗したやきものを見つめては

またていねいに場を整えたり

その場に居続けたり

他者との関係の中でみずからを据えて

あえて傷つきやすいものとして自分を開いて

小さな行為を積み重ねていくこと。

自分への強い執着や同一性を離しながら、同一性を保つこと。

そんなことが求められているのかもしれない。

と、41の半分を過ぎようとしている私が考えたこの年の振り返りを記して、ここで終わりとしたい。



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