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僕のにゃんた

先月末に僕の大事な大事な猫のにゃんたが亡くなってしまった。

にゃんたのお葬式から1週間と2日が過ぎた。
亡くなってしまってから2週間半ほど。約半月。
もうそんなに経つなんて。

にゃんたが亡くなった時から不思議な事があった。
誰もいないのに吐息が聞こえた。
家の中に干してあるカーディガンの影がにゃんたの形。
BOXを持っていた手が滑って開くはずのない所が開いて壊れたと思ったのによく見ると開いた形跡がない。幻覚だろうか?

にゃんたのお気に入りの場所ににゃんたの残像ばかりが見えた。
信じられない不思議な現象が起きる事もあって、現実なのかどうか信じ難かったけど、どうやら本当らしい。

まじか?本当か?だったのが、
まじか。本当か。になってきた。

悲しくて悲しくて信じられなかったけど、
ここ数日になって、ようやく頭が理解してきた。

約21歳で人間だと100歳位。
20年以上、とても長い時間を一緒にいてくれた。
もういないなんて考えられない。

にゃんたがいないと余りにも静かだ。
耳の中に何の音もしない。
にゃんたの声や気配を常に耳が探していたのが、何も聞こえなくなってしまった。

にゃんたはトイレをしたら呼びに来たり、
吐いてしまった時も呼びに来たり、
何か用があって声にならない小さな声を出したり、
よたよた歩いて廊下にやってきて階段の下で僕を待っていたり、
転びながら階段を上ってきたりしていた。

約100歳のにゃんたは僕の心臓病の入退院以降に体調を崩してしまっていた。
自分でご飯も食べられず水も飲めず歩けなくなって寝たきりになってしまっていた。
大好物のまぐろをあげた時になんとか頑張って立ち上がりまぐろを食べて、
そこから何とか歩けるまでに一時は回復していたのに。

悲しくて悲しくて、信じられなくて、にゃんたの残像ばかり見てしまう。
庭や家の中で無意識ににゃんたの影を探してしまう。
頭でもういないとわかっていても体に染みついてしまっていて、反射的に、
あ、トイレ片さなきゃ、様子見に行かなきゃ、となってしまう。

にゃんたのお気に入りの場所ににゃんたがいるように見えてドキッとしたり、にゃんたのいないにゃんたのお気に入りの場所を見て悲しくなる。

にゃんたはいつもいつも一緒にいてくれた。
辛い時もいつも一緒にいてくれた。
にゃんたがいてくれた事でどれだけ支えられていたか思い知った。
もうにゃんたがいないなんて、もう会えないなんて考えられない。
こんなにつらい事があるのかと思って、泣いてばかりいた。
にゃんたを失った悲しみは余りに大きすぎる。

でも、思った。
にゃんたが今までずっとずっと一緒にいてくれた事は喜びだ。
悲しむ事をこれからもずっと続けて行ったら、
にゃんたがいた喜びと失った悲しみが相殺してプラマイゼロになってしまうかもしれない。
にゃんたがいてくれた喜びより、失った悲しみの方が大きくなってしまうのは嫌だ。

だから、突発的に悲しくなる事は仕方ないとしても、
できるだけ悲しまないように、
悲しくなってしまいそうな時も一緒にいてくれた喜び、嬉しさ、ありがたさ、かわいさを思い出して、にゃんたにありがとうと言う方がいいと思った。

そう思ったら、なんとか立ち直れそうな気持ちになった。


にゃんた、にゃんた。僕のにゃんた。

かわいくて
面白くて
強くて
大きくて
時に臭くて
けっこう気を遣ってくれて
留守番が嫌いで
お魚が大好きで
人懐っこくて
猫が嫌いで


にゃんたの気配は今も感じる。
今もこれからも一緒にいてくれていると願う。





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