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100年の物語

私の100年の記憶。

私は半世紀前に、既にわれ思う小学生だったので、当時の古老の話は割りと覚えてるし、父や祖父の昔語りも聴いている。
話の古くは明治後期からは実話で私の中にあり、まだ曾祖母が存命で、祖父の生まれが1907年であることを考えると、1910年くらいから後は、本当にあった事だ。
明治生まれがうちに二人、親子で居たのだ。少なくとも昔語りは、三代分あり、百年を越えた記憶がある。

南海電鉄の技師であった曾祖父は、早くになくなって、三十三回忌まで、曾祖母が仕切った。

祖父は祖母の実家が医者であったために、祖母を娶るために、医学を修めた。
大阪南部で開業し、のちに今の住所に移った。
沖縄戦の前に戦争に行き、将校であったことから終戦の翌年まで拘留された。
中国を支那といい、欧米人を毛唐と言ったこともそりゃ、ありましたよ。

貫通銃創で執刀医を諦めて、市井の町医者となる。
古いお医者さんの道具は、きっと高価だったろうと思う美しさがあり、薬瓶もソーダガラス。
顕微鏡が金庫に入っていた。
私は、誰もいない診察室が、大好きだった。

台風で停電したとき、我が家のガス灯を灯した夜は美しいものだったよ。

曾祖母が古い仏壇の引き出しに六銭入れていて「私が死んだら頭陀袋に入れてぇな」と、言われていた。
曾祖母の前に祖母が亡くなり、翌年に曾祖母も亡くなった。
昭和50年頃のことだ。

その後、母、祖父、父を見送り、弟妹は家庭を持った。

今年はいろいろあって、弟妹とあまり会えない。

叔母はときどき、両親や兄がまだいるように思うのだろう。
自分の家族を探す。

私はここにいます。
お父さんお母さん。私はここにいます。

誰に会えなくとも、私はここにいます。
たとい、一人になる日が来ても。

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