くまくま屋emi@Osaka

日本画を志し、美術教師をしていました。現在は、編み物中心に、木工芸、絵画など、教えたり…

くまくま屋emi@Osaka

日本画を志し、美術教師をしていました。現在は、編み物中心に、木工芸、絵画など、教えたり、作ったり。短歌や詩やボカロもします。 2021年8月

最近の記事

どんな人をめざしたか

「経験が豊富」 「冷静で余裕がある」 「好奇心旺盛」 「知識の幅が広い」 「イレギュラー対応がはやい」 「メンタルが強く切り替えが早い」 「誰に対してもフラット」 「自分の意見を変えることができる」 「最初に徹底的に考える習慣がある」 意見を変えるにためらわないのは大事。

    • 忘れていく

      いろんな事を忘れていくのは、いろんなものが要らなくなって人のシンプルな形に戻っていくからではないのかと、最近そう思う。

      • すてる

        これからは、余分なものをいろいろ捨てたりして、身の回りをきれいにしようと思う。 私はまだ、しばらくは死ぬ予定はないが、腰が曲がって背の高さが縮んで、自分の目の高さよりも上に、かつて自分で乗せたものが、手に取れなくなったら、それは、もう、自分にとっていらないものになってしまう。 大事だったものを、一度どこかにしまったら、それは、次に見ることなく、しまわれたままになってしまう。 広い家に、捨てずにためたものは、思い出からただのゴミになってしまう。 今日、叔母が20年以上撮りため

        • 4歳児の想い

          保育所に行っていた時に、大人に想像力がなくて嫌になったことがある。 ある日、時間割り通りに保育の進行ができない日があった。どなたか先生がおやすみになって、2クラス合同で、絵本紙芝居か映画を観ることになった。 たぶん、大人側からすると、何時間かの枠を何人かで保育するのに、映画がよかろう、となったのだと思う。 何本か用意された映画があった。 ひとつ目が終わり、大変面白い作品で、私は満足した。 その後、 「もっとみたいですかぁ~?」 「はーい」 と言うやりとりがあっ

          なぜを紐解く

          土井善治先生を意識して、もう、何十年になるでしょうか。 このコラムを今まで知らなかったのは、何と言う迂闊な事でしょう。 今年60歳になるまで、ずーっと、私が一人で思っていたことを、きちんと言葉にしていらっしゃる、それを文章で発表してはる。いま、出会えて良かった。 ようやく出会えて良かったです。 これは料理に限ったことではないですが、いろんな場面で「なんでやろ?」「ほんまかな?」と思ってきました。 「ほんまかな?」は、決まりごとにたいしての疑問と、実験の始まり。やって

          真田十勇士

          上川隆也の幸村は、抱きしめたくなるような愛しい幸村であった。 敗軍の将がこんなに似合う人は、あまりいない。 夏の陣の赤備えや、翻る陣羽織の青い裏地。 槍を遣う所も素敵。 十勇士も、見所いっぱい。大助も才蔵も小介もいい。 鎌之助は、いい男過ぎて ずるいな。 秀頼もいい男ぶり。 淀君も上品だった。 でも、一番ビックリしたのは、オーズの兄ちゃんとげんちゃん=シンケンゴールド、げんちゃんは秀頼で、金蘭の衣装をお召しであった。 真田十勇士の一場面、大阪城落城の直前、赤備えで、

          かまどがあった頃を私は知らない

          いま、テレビでかまどを観て、むかしむかし、家にプロパンガスのボンベがあったことを思い出した。 オーブンが来た頃には、都市ガスになっていた。 私が台所で何かしようと思った頃には、都市ガスだったので、あれは50年くらい前なのかな。 叔母さんは、かまどの時代に子供だったそうだ。そういえば、台所に天窓も切ってある。 かまどのあった頃を私は知らない。 台所が土間の時代は、そうだったんだな。 練炭火鉢を焚いていたのは知ってるなぁ。 キレイな灰がさらさらで好きだった。 十年二十年は、

          かまどがあった頃を私は知らない

          言葉

          刺さった言葉は時に痛く、時には優しく心を溶かす。 言葉に動かされて、綴られた言葉を繙く。 この本が読めないのは、その時期ではないから。 学べ、それまでにするべき事は、ある。 文字には意味があり、力がある。 自分一人なら、まちがえてもひきかえせばいいし、リロードすれば良い。 人に向ける言葉や行動は、間違っちゃいけない。 それこそが「とりかえしのつかないこと」だ。 意味のない言葉は慎み、粛々とその日を待つだけ。 たぶんね。

          100年の物語

          私の100年の記憶。 私は半世紀前に、既にわれ思う小学生だったので、当時の古老の話は割りと覚えてるし、父や祖父の昔語りも聴いている。 話の古くは明治後期からは実話で私の中にあり、まだ曾祖母が存命で、祖父の生まれが1907年であることを考えると、1910年くらいから後は、本当にあった事だ。 明治生まれがうちに二人、親子で居たのだ。少なくとも昔語りは、三代分あり、百年を越えた記憶がある。 南海電鉄の技師であった曾祖父は、早くになくなって、三十三回忌まで、曾祖母が仕切った。

          自分の苗字が外字になった話

          文字は打つものでなく、書くものだ。 パソコンで出ない文字は、みえない歴史と文化を持っています。蔑ろにして、よいはずはない。 私の名前は、免許証だけ「つちにくち」の吉を使っています。 名列で、出ないので、公文書が電子化されるときに「さむらいにくち」の吉に替えたそうだけど。そりゃ、文字には、愛着もある。 私が免許を取った時には、まだ、「つち」だったのだ。 旧字や異体字で今もいろいろ思っている人はたくさんいるだろう。 学校だと名簿に出ない字は、新学期に下駄を履いていたりする。名

          自分の苗字が外字になった話

          ヘルプマークと人は見かけによらないこと

          私はウロストミーという。人工膀胱保持者である。 右腎と膀胱がなくなって、おしっこは、おへその右側から、回腸導管という方法で排泄している。 6年前から、4級ではあるが障害者で、福祉のほうから、ウロ用の袋代を補助してもらっている。 私はガン患者で、最初の手術からは、もう10年以上。 抗がん剤治療をして、禿げたり、事故で偶然、初期の物が見つかったりの患者で、最後の手術からはまだ3年なので、目下経過観察中である。 ガンは、突然やってくる。 私の印象では、何らかの嗜好品を嗜む程

          ヘルプマークと人は見かけによらないこと

          今できることを

          今、二十歳くらいの人に。 人生は長い様で短い。 実質、二十歳までは長いと思っていた。 その後、充実した中身で暮らしても、好きなことを中心に過ごしても、気がついたら二十年など、あっという間だ。 その後の二十年は、もっとあっという間。 特に、30~40代くらいでやりたいことこあったら、躊躇わずにやったほうがよい。 老後の楽しみなんて、元気でなければ、ないに等しい。 目を悪くすると本も読めない。 人生はみじかい。 退屈している暇などない。

          彼の下宿には電話がない

          2017/8/15 20:32 あの頃に 戻りたいとおもわないけど 深夜の公衆電話にむけて 発信した番号は 亡くなった恋人の電話番号 メールアドレスや携帯という言葉もない時代に レンアイしてたなぁと 暗記していた番号は あなたの番号は 私の指先に今もある 最優先でおぼえてる

          彼の下宿には電話がない

          ありがとうのワルツ

          2016/2/24 22:21 今日は ありがとう 会えて よかった 君とはなし できて  嬉しかったよ 首をかしげ 話すよ きみの声(アルト)は  やっぱり ぼくの胸に やさしく響く 昨日よりも  おとといよりも 初めてあった あの日よりも 今日の 君が好きだよ いちばん 好きだよ また 会おうね 元気で いてね 同じ この店で お茶を飲みましょう 今日は ありがとう 君に ありがとう きみと出会えたことに ありがとう

          ありがとうのワルツ

          【短歌】思ひ出・折々【俳句】

          2016/5/11 20:53 母はまだ 五十の坂を 登りおり    母親の年を超えてしまった日に 2010/10/13 父の忌に 訪なう人の 白き鬢   2006/11/18 沈丁花 赤き白きも つぼみもち    2015/1/15

          【短歌】思ひ出・折々【俳句】