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変人万歳

七夕の便りの主は伊達男
(たなばたの たよりのぬしは だておとこ)

季語は七夕。秋である。これから夏本番なので、いま秋の句とは変なのだが、陰暦と太陽暦が渾然一体となった季語の世界では、こういう不一致はある。七夕は陰暦の7月7日なので今年は8月14日だ。それでも、たぶんすごく暑い日だろう。それなら七夕でいいじゃないか、とこの句になった。新暦の7月7日にしてもまだ2週間もあるのだが、ご容赦頂くことにする。

先日、職人の菅野さんからLINEをいただいた。「職人」というのはご本人の名刺の肩書が「職人」なのでそう書いたまでのこと。メディアに登場するとご連絡をいただくことがあるのだが、今回はベントレーのサイトに登場したとのこと。

手仕事の人なのだが、2008年に別のブログサイトで菅野さんのインタビュー記事にリンクを貼って「いい話」というタイトルで投稿したら、ご本人からコメントを頂いた。そこをきっかけにメールのやり取りが続き、年に一度くらい菅野さんの工場にお邪魔してご馳走をいただきながらお話をする、という緩やかな関係が今日まで続いている。友達がいない私にしては珍しい人間関係だ。

言葉や数字は元の文脈を離れて独り歩きをする。「独り歩き」という穏やかなものではく「単独暴走」と言葉を変えたほうが相応しいのではないかと思うほど、言葉尻だけが飛び交う世の中になった。近頃は「サステナブル」とか「ESG」なんていう言葉をよく見聞きする。どの程度の時間軸で「持続」を語っているのか知らないが、昨日と同じ今日はなく、今日と同じ明日があるはずがないのに何を「持続」させようというのだろう。「ESG」なんていうのは国連が提唱した概念らしいが、いかにもそれらしいイカサマ臭さが漂っている。「手作り」なんていうのも妙にありがたがられたりしている。

自分では何も作ったことのない奴に限って「手作り」を熱く語るものだ。家事全般、料理も掃除も洗濯もしない人がいるらしい。生活に必要なモノもコトも貴方任せにして金で片付ける。使いきれないくらい稼ぎがある人たちの間に限ったことなのかと思えば、そういうふうではないらしい。

できることなら楽をする、というのが我々人間の脳の基本的な性質なのだそうだ。だから、あれよあれよという間に身の回りのことがどんどん便利になる。生活は合理化されて家事に費やす時間は50年前あたりと比べたら半減しているのではないか。多くの人が従事している賃労働にしても、「高度経済成長」とか「バブル経済」の時代には「24時間働く」くらいの勢いがあったが、今そんなことを求めたら「ブラック企業」などと悪い評判が立って雇用ができない。家事時間が減り労働時間が減ったら、その空いた時間を何か自分のことに振り向けて幸せになるのかと思いきや、そういうわけでもないらしい。

身の回りのことは新しい機械やサービスが人に代わってやってくれるというのが当然のことになりつつある。そうやって自分の生活を他所に任せきりにすると、当然、自分自身の行為は減り、何事かを成したという当たり前の記憶は希薄になり、経験のないことは発想できないので、やがて無力になる。創意工夫とか発明発見が生活に取り入れられるのは、人の負荷を軽減する形としてである。創意工夫は価値あることとして賞賛を受ける。しかし、その結果として、我々はなにがしか能力を失う。この調子でいくと、我々は自滅して、後にはサステナブルな方法で作られたエネルギーを用いたサステナブルな装置が誰もいなくなった世界でただ動き続けるのだろう。

たぶん、これこそが進化の自然なのだと思う。ただ、どこの世界にも順応することを快しとしない人がいるもので、そういう少数派が創意工夫や発明発見を牽引する一面があるのも確かだろう。変人の創意工夫が大衆化して、大衆はますます無力になり、変人はそれに不満を覚えて新たな創意工夫に励み、総体として見れば衰退へ向かう、ということか。手仕事なんかに己を見出す人も間違いなく少数派。ベントレーなんぞを乗り回す人も違った意味での少数派。いわば変人の世界だ。残念ながら、どっちに転んでも人は衰退する。過去地球上に誕生した生物種の99.9%が滅亡したという。人もそういう流れには逆らえない。それもまた自然。

それでも、意識してか無意識なのか、人は生物進化の最上位に己を位置付ける。なんのかんのと言いながらも、人はどこかに「我こそは」という意識を抱えている。だからこんな歌を詠んだりもする。

白珠は人に知らえず知らずともよし知らずとも我し知しれらば知らずともよし(万葉集 巻第六 1018 (岩波文庫 『万葉集(二)』200頁))

元興寺の僧で世に認められなかった人が己が境遇を嘆いて詠んだ歌だそうだ。それなのに、こうして1000年を経た今、彼の歌は文庫本に収められて誰でも読むことができるのである。名前は残らなかったけど歌は残った。自分が信じることを真面目にやれば、必ず誰かがそれを認めるものなのである。認められないとしたら、信じることが十分ではなかったのか、真面目が足りなかったのか。いずれにしても他人の所為ではない。手仕事はそういう「信」と「真」の世界のことだと思う。菅野さんが「職人」という肩書きに込めた想いは、たぶん、そういう「信」と「真」に生きているということだ。

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