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恩義という罪深き世界

昨日居酒屋でAと一杯やった時の会話。

A「大企業に入って、しばらくお世話になってから辞めればいい。」
A「そこでキャリアとスキルを身につけて、コネクションを広げてから独立すればいい。」

俺「・・・Aよ、それは人脈泥棒だよ。」

大義名分は言い訳

会社に依存していない、会社は利用するものだ、と主張する社員(Aも然り)は意外に多い。彼らに共通してあるのは
•現状は通過点
•一度きりの人生、将来成功したい
という大義。その大義名分が(人脈泥棒を行う)自分を正当化している。

恩義は見えにくい

彼らに対し、会社や先輩が「これまでこんなに目をかけてやってたのに、恩知らずだ」とかいう類の話は的外れ。なぜなら彼らは目に見える「恩義」を味わっていない。

恩義が見えるとき

「恩義」は、特に、会社のルーティンでは見えにくい。

「恩義」が目に見えるときとはどんなときか?

•部下が大失敗して青ざめているときの上司「よし!一緒に謝りに行こう」
•部下が退職したとき、新しい勤務先を紹介してあげる

考えてみるとこんなときくらいしか「恩義」は見えてこない。(もちろん恩を売るつもりはないが)

だがそこに恩義は在る

「自分を生んでくれ、育ててくれてありがとう。」
自分が親になれば分かるというこの定番フレーズ、これは恩義である。(親も大抵、恩着せがましくないので見えにくいが)

至上の愛 by コルトレーン

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恩義を知るには相当長い年月がかかる。

かつて娘は嫁とともに、父親の私を「汚い」とか「飲んだくれ」とか、罵詈雑言でなじっていた。そんな娘が念願の私立大学に受かった日、父親はこれまで貯めた数百万円を無言で渡す。(銀行振込だと見えにくいのであえて現金で手渡す)
「お父さんありがとう」恩義が垣間見えるかもしれない。

恩義の反作用

人生を進むと、友人さらに社会に対しても「恩義」は積み重なっていく。
ここから少し難解な例えですが、恩義には「重さ」があって、これがのしかかると、恩義を受けている側が混乱して(メタパニの呪文)、恩義を与えた人が不意に反発の標的にさらされるというのです。
「別に何の恩義も受けていない」
「産んでくれなんて頼まなかった」
「そもそもこちらが恩義を与えていた」

、、、これらはひどい仕打ちです。

さいごに

「恩を知ることは無形の富である」by 松下幸之助

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受けた恩義を生涯忘れないように、恩を受け取りすぎないように。
「恩義」は中国の歴史を辿らねばならず、私には全く及びませんでした。

俺「今の時代、己のスキルと人脈があればYoutubeでもやってけるよ!」
俺「かつてのテレビ局のように、独立したタレントには仕事が来ないみたいな会社権力は薄まっているし」

俺は改めてAにエールを送ります。


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