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「あけましておめでとう」はやっぱり言いづらい 雑記2024-1-8

小沢健二の「Noize」
元日、友人に誘われて小沢健二が昨年に東大で行った講義のアーカイブ配信を聴いた。その配信で公開された曲。
滅茶苦茶格好良い。凄いところしかない。メインボーカルが小沢健二じゃなのも、なんで?ってなるし、進行が本当に変てこだし、なんか本当に格好良い曲です。本当に変な曲だけれど。

今年初めて更新する。
ここ二年くらいの筈だけれど「あけましておめでとうございます」を言わずに、「今年もよろしくお願いします」だけ言うようになった。信念があるわけではない。新年についての信念なんてない。芯は無い。
絶対言わない訳じゃないけれど、言ったときは妙に気恥ずかしくなる。そんなことを言うのが後ろめたい。年が明けることをめでたいことと信じることができていないのに、そんな言葉を言うのがこそばゆく感じる。こんな嘘をつきたくないと思ってしまっている。
それだけじゃない。「あけましておめでとうございます」(以下「あけおめ」)という言葉は、「今年もよろしくお願いします」(以下「ことよろ」)とは性質が違う。
「あけおめ」を私は「あなたが新年を迎えられたことを私は祝福します」みたいな意味合いで理解している。もしかしたら違う意味を持つ言葉かもしれないけれど、そういう理解をしている。なんかこれって押しつけがましさがある。
わざわざ自分がそんなこと言わなくても新年が喜ばしい人はその人なりに喜んでいるだろう。年が明けたことを残念がっている人に「あけおめ~♪」なんて言ったらその相手はたまったもんじゃない。「ふざけんな!こっちは年明けちゃってるんだぞ!!」なんて本当に怒りながら言葉をぶつけてくるかもしれない。そしたら私は「ことよろっス……」と言ってすごすごと退散するしかない。想像して凄い嫌な気持ちになっちゃった。
まあ、後半は冗談交じりだけれども、それでも「あけおめ」って自分には重い。善意の言葉だからこそ重い。善意より怖いものは無い。そういう言葉を皆がなんでもない顔で使っていることは素直に凄いなと思う。かっこいい。
「ことよろ」はその点使いやすい。よろしくって言葉は使いやすい。私とあなたの間の話をしている。「私はこの一年もあなたと良好な関係でいたいのですよ、お互いそのために頑張れたらいいですね」という私の気持ちだ。それが良い。「おめでとう」にはない感覚。あくまで、私の意志に関する言葉。そういう言葉はホッとしますね。

そういえば「よいお年を」は言える。なんなら好きな言葉だ。年末は積極的に使っている。
この言葉は「よいお年を(あなたが迎えられることを私は願っています)」という言葉の省略だから使える。私が勝手に願っているだけだから。
この、「あけおめ」/「ことよろ」「よいお年を」の私の中での対立を見ていると、私は誰かの幸福を祝福することが苦手で、私と誰かのこれから先への願いは楽に言える。そういうまとめ方をできる気がする。
みんな、多分もっとシンプルに挨拶してるんだろうけれど。かっこいい、憧れる。

最後に。そういえば、私は「おめでとう」って言うのがそもそも得意じゃなかった。言葉を伝える相手が現在幸福であると断言することなんてできないからだ。他者の気持ちは分かり様がない。推測で話すしかない。そんな中で、相手が幸福であると断定して「おめでとう」なんて言うことは怖い。
だからこそ、自然に「おめでとう」って言葉を投げかける人は凄いなと思う。人を祝福できる人間が、人の気持ちを理解しようとできる人間が、人の気持ちを完全に理解できることなんてないと分かりきっている人間が、他者の幸福を祝福する。その行為は美しいものに思える。

なんとなく、思ったことを書いていたら少しすっきりしました。もう少し書きたいこともあったけれど、また今度書きます。
最後になりましたが、あけましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願いします。

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