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旅する日記②千葉県御宿町のスーツケースと夜の海

 アドレスホッピング三日目にして、やってしまった。
 旅人の失敗の代表格「ロストバゲージ」というやつを。

 一宮に泊まった翌日、わたしは同じ外房線の御宿町に滞在する予定だった。電車が御宿駅に到着し、ホームに降りたときに、帽子を電車の座席に忘れてきたことに気づいた。わたしは重いスーツケースをいったんその場所に置き、車内に戻った。

 あとは想像通りである。帽子を取り戻し、再度ホームに出ようとしたわたしの目の前で、扉が閉まったのである。
 電車の扉というのは、エレベーターのそれとは違って一度閉まると何をどうしても再び開くことはないのだと、当たり前のことをいま初めて知ったような気分だった。

 遠ざかるホーム。遠ざかるわたしの相棒(スーツケース)。悩んで悩んで、スイスイ引いて歩けるという触れ込みのものを買い、そして触れ込み通りスイスイ動いてくれた、有能な子。

 次の駅である勝浦で降りて、すぐ御宿へ戻ろうとしたわたしだけれど、それは東京に住み慣れた人間の考えだった。なんと、次の電車は一時間近く先なのだ。

 仕方なしに、わたしは御宿駅の電話番号をネットで探して、スーツケースを置いてきたことを連絡した。スーツケースがまだホームにあるかどうか確認してから折り返すということで、電話は一旦切れた。それから電話がかかってくるまでの二十分ほどのあいだは生きた心地がしなかった。まあ、勝浦でやることがなかったので、駅の近くの店でまぐろの漬け丼を食べたりしたんだけれども。

 注文したまぐろ丼を待っているあいだに電話が来て、わたしのスーツケースは御宿の駅員さんによって無事保護されたということがわかった。ひと安心だ。一万七千円もしたスーツケースを使用開始三日目で失ったら、もう立ち直れない。

 御宿駅までスーツケースを迎えに行くと、気のいい駅員さんが迎えてくれた。

「いやー。外国の人がいない時期でよかったね。普通だったらとっくに盗まれてるとこだよ。あの人たち、ホントなんでも持っていくんだから」
「そうなんですね。預かっていただいてありがとうございます」
「うんうん。あ、スーツケースの中身、調べさせてもらったからね」
「……えっ?」
「財布とか入ってたら困ると思って。でも、リュックに入れて自分で持ち歩いてたならよかったよ」

 ……よくないがな。

 スーツケースの中には、いろいろ入っているのだ。パンツとか、パンツとか、その他のいろいろ恥ずかしいものが入っているのだ。いわば女の子のプライベートスペースだ。
 旅をはじめて三日目にして、そのプライベートスペースを知らないおっさんに見せてしまうとは。

「受け取る前に身分証明書を見せてね。あと、この書類にサインして」

 そう駅員さんが渡してきた書類にも、ご丁寧にスーツケースの中身が書かれていた。どうやら本当に調べたらしい。

 いや……もう何も言うまい。これは完全にスーツケースを手放したわたしが悪い。「旅の恥はかきすて」という言葉は、きっとこういうときのためにあるのだ。
 今後、アドレスホッパーになりたいという人に会ったら「荷物は手放すな」と言いたいと思う。

「御宿、楽しんでね」と駅員さんに見送られて、わたしは御宿駅を出た。駅前の通りはひまわりが咲いていて、猛暑とロストバゲージでへとへとになっていたわたしを癒やしてくれる。

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 駅から十分ほど歩けば、もう海だ。そして、駅から海岸に行くちょうど中間地点に、わたしがこれから五日を過ごす家があった。
 白い壁のかわいらしい家だ。わたしが予約した寝室は一階の玄関のすぐ横にあった。マンションの管理人室についているような小窓や、壁に取り付けるタイプの内線などが残っていたので、この家自体がもとは保養所か何かで、この寝室も管理している人が使っていた部屋なのかもしれない。

 寝室は思っていたよりも古いけれど、リビングとキッチンはきれいだった。何より、トイレとバスルームが共同ではなく、各個室についているのがありがたい。
 設備が充実している割には、家はがらんとしていた。わたしの他には誰もいない。二階にもいくつか空き部屋があるのに、誰も泊まっていないようだ。なんだか、買ったばかりのドールハウスみたいでちょっとさみしい。この家に一人でいるのもなんだか面白くない気がして、わたしは海岸に散歩に行ったりして過ごした。

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 そして夕方、わたしが海から戻ってくると、よく日焼けしたお兄さんが玄関のポーチでハイボールを飲んでいた。
 彼もADDressの会員で、今日から一週間、この家に泊まる予定だという。
よく日焼けしたお兄さんは、その見た目通り、海が好きな人だった。この御宿の家も何度も利用しているそうだ。
「このあたり、何もないけど飽きませんか?」
「いや。海とセブンイレブンがあれば他になにもいらない」
 リビングで交わしたそんな会話が印象に残っている。

 日に何度が海へ泳ぎに行くというお兄さんは、夜も海に行く。
 わたしは海を見るのが好きだけれど、夜は怖い。中学生の頃、修学旅行で行った青森のホテルで見た夜の海は、タールのように真っ黒で、なんだか幽霊が浮いてきそうな感じがしたのを覚えている。

 ――ところが。
 ものは試しで行ってみた夜の御宿海岸は、これがとても素晴らしかった。

 その晩はよく晴れた満月だった。遮るものの何もない広い空に浮かぶ月の光が、深い紺色をした波を照らしていた。そして波が押し寄せるたびに、その光が水面できらきらと揺れるのだ。
 わたしの知っている夜の海がタールみたいだとしたら、いま目の前にあるこの海は、黒曜石とか、オニキスとか、そういう美しいものに喩えられるべき光景だった。夜の海に対して抱いていた「怖い」という思い込みが、ひとめで打ち砕かれた。

 夜の九時という時間もあって、海岸にはわたしの他に誰もいない。いま、この美しい景色を目にしているのは、この世界でわたしたった一人なのだ。なんという贅沢だろうと思う。
 こんな風に美しいものに出会うために、わたしは旅をはじめたのかもしれない。そう感じるほど、御宿の夜の海は魅力的だった。

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 夜の海は怖いと思い込んでいたけれど、お兄さんに勧められたとおり来てみてよかった。もし彼の話に耳を貸さなかったら、このきれいな景色を目にすることも、夜の海が怖いだけのものではないということも、知らないままだったから。
 もしかしたら、その人の世界がどれくらい広がるかというのは、どれだけ他人の話に耳を傾けたか、ということに比例するのかもしれない。そんなことを考えた夜だった。

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御宿の旅のおとも:勝浦ラーメン

#多拠点生活 #アドレスホッパー #ADDress #御宿


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