温泉の話 2 岐阜県栃尾温泉 荒神の湯

大切な場所

岐阜県の北部、奥飛騨と呼ばれる地方に栃尾温泉はある。このあたり一帯は新穂高温泉郷と呼ばれる温泉地帯で、沢山の露天風呂があることで有名である。大きな露天風呂を持った旅館がいくつもあり、その間に素敵な公共の露天風呂が点在する。源泉温度が非常に高いのが特徴で、90℃を超える熱い源泉を持つ温泉が川沿いにいくつも連なっている。新穂高温泉郷の終点はロープウェイの乗車口になっており、夏場は沢山の登山客で賑わっている。ロープウェイの先は北アルプスの西穂高岳。さらに進むと奥穂高岳に至る本格的な登山コースだ。荒神の湯はそんな新穂高温泉郷の入り口にある公共の露天風呂で、24時間開放されている為登山者の利用が多く、脱衣所の下駄箱にはいつも沢山の登山靴が並んでいる。私自身も、奥穂高岳を訪れる際には必ず荒神の湯に入っていた。大きな川沿いの露天風呂で汗を流し、川原をわたる爽やかな風に吹かれるのがとても気持ちよかった。
 そのうちに就職をして仕事が忙しくなると、奥穂高に登るようなまとまった休みが全くとれなくなってしまった。しかし不思議なことに山には登らないのに荒神の湯には定期的に訪れている自分がいることに気がついた。仕事で疲れたり、悩んだりした時には気がつくと明け方に荒神の湯につかっていた。少し遠いのだが、いつのまにか荒神の湯は自分のオアシスのような存在になっていた。
 もう20年以上前の話。私が東京で某ファミリーレストランの店長をしていた時の話である。山本というもう退職したアルバイトが、「話を聞いて欲しい」と突然店を訪れて来たので事務所で話を聞いてみたところ、大学を卒業して就職したのだが、仕事が上手くいかなくて大変なのだという。それだけ聞くと普通の話だが、顔色は悪く、かなり参ってしまっているようで、「死にたい」などと言うものだから驚いた。困った私はどうしたらいいか分らないまま山本を車に乗せて、とりあえず荒神の湯に向かったのであった。きっと自分にとって悩んだ時のストレス解消の場所だったのでそうしたのだと思う。ひたすら車を飛ばし、明け方に荒神の湯にたどり着いた。   良い温泉と良い空気、良い景色には人を落ち着かせる効果があるようで、山本も少し笑顔になって荒神の湯を喜んでくれた。青くなり始めた明け方の空に、白い月が浮かんでいた。やがて眠くなった私と山本は、荒神の湯の駐車場にとめた私の車の中で、物凄く深い眠りに落ちた。眠り始めたのは恐らく朝の6時くらいだったと思うのだが、起きたのは夜の9時だった。2人して15時間も車の中で眠ってしまったようであった。さすがにそれだけ眠ると、山本も元気になっていた。一番大切なのは睡眠だったのかもしれないと考えると、必死になってこんなところまでやってきたことがおかしく思えてならなかった。
元気になったものの、15時間も車の中にいたので、腰が痛くて仕方がなかった。私と山本はもう一度荒神の湯に入り、熱いお湯の中でゆっくりと背筋を伸ばした。あんなに眠ったのに、伸びと一緒に大きなあくびが出た。隣をみると山本も大きなあくびをしていたので私たちは顔を見合わせて笑ってしまった。曇り空の中からほんの少し顔を見せた半月も、僕たちを見て笑っているように思えた。

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