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心の傷と対処メカニズム

その場しのぎの対処法


人は、嘘をつくことがある。
嘘をつくのは、「その場をしのぐ」ためなのです。

それは応急手当みたいなもので、何か好ましくないことが起こると、小さな嘘のバンドエイドを、その好ましからぬ出来事に貼り付ける。

例えば幸せではないのに幸せな振りをしていると、「その場しのぎ」になることがある。

でもその嘘を、何十年も続けていくとなるとそれは、どの場のしのぎにもならない。

ならないばかりか、「幸せな振りをしている不幸せ」のストレスに、苦しむことになってしまう。

大抵の短期的な解決法(=その場しのぎの適応法)は、長期的には有益にはならず、むしろ有害なものとなる。

でも、「その場しのぎの適応法」は、「その場」では私たちを助けてくれたものでもあるのだ。きっとその適応法がなかったら、その場をしのいで(生きて)これなかったかもしれない。

「自分らしく」あることができないと、自分との繋がりが途絶えてしまう。

自分の価値、自分の感情、自分の体、そして他者や世界との繋がりが、途絶えてしまう。

では、どうして自分らしくあることができなくなったのか?

それは、自分らしくあってしまったら、例えば親に愛情をもらうことができなかったからかもしれない。

或いは、自分らしくあることが、社会文化的に認められなかったのかもしれない。

子どもは親に愛されるために、社会文化にそぐうために、本来の自分を押し殺し、自分との繋がりを途絶えさえてしまうのです。


コーピング・メカニズム


ガボール・マテは言っています。

"トラウマとは、出来事のことではない。トラウマとは、何かが起こった結果、人の内部で起こる変化のことだ" と。

彼はまた、こうも言っています。

"トラウマは、何かの悪い出来事が原因で起こるだけではなく、「良いことが起こらなかった」ことが原因で起こることもある"。

例えば赤ちゃんは、辛いことが起こった時、抱っこされてあやされて、「大丈夫、辛いことはいつか終わるから」と安心させられる必要があります。でもそういった安心が得られないと、その感情的な痛みは子どもの体の中に、宿ったままとなるそうです。

本来、赤ちゃんの神経系はお母さんの神経系によって調節されます。
(Modern attachment theory)

お母さんの神経系が安定していると、赤ちゃんの神経系も安定するのです。

だってまだ幼い赤ちゃんは、自分で自己調節をすることができないのから。

だけれど自己調節をしてくれるはずのお母さんが(お母さんと書いているのは、それが妊娠期間中から起こっていることだからですが)、自分の心の痛みで手一杯だったりすると、充分な注意を向けられない赤ちゃんは、自己調節をすることができないまま、言葉も話せず、助けを求めることもできず、自分で動いてどうにかすることもできず、「自分ではどうすることもできない辛さ」を抱えて成長することになります。

そんな風に「自分ではどうしようもできない辛さ」を体に抱えながら成長していくと、(これは子どもが成長していく間ずっと続くことなので・・・)、いずれ子どもは辛さから解放されるために、解離してしまうようになる。または、じっとしていられない落ちつきのない子になる。もしかすると凍結したように動けなくなるかもしれない。そしていつしか、発達障害という診断名がおりるかもしれない。或いは、自分を傷つける行為をしないと、生きている心地がしない。食べ物によって癒されるのであれば、摂食障害になることもある。

これらは彼らの「対処メカニズム (coping mechanism)」だと言われています。

対処メカニズムとは、精神的苦悩や問題に対処するために働くしくみで、さまざまな身体的な病や行為となって、表れるのだそうです。


性格が果たす役割・機能


さらにそこには、その人がもともと持っていた繊細さや、社会文化的な背景の影響も加わってきます。

「(欠乏、ストレス、不安定によって)社会的・物理的な環境が原因で人の成長が脅かされてしまうと、人はその場を生き延び適応するために、生理学や心理面を調節する短期的な適応法を身につける。しかしそのような適応法は、学習、行動、健康、寿命において、長期的な悪影響を与える可能性があるということが、科学的に証明されている」(Harvard Center on the Developing Childの小児科ジャーナルより引用したものを翻訳)

"Growing scientific evidence also demonstrates that social and physical environments that threaten human development (because of scarcity, stress, or instability) can lead to short-term physiologic and psychological adjustments that are necessary for immediate survival and adaptation, but which may come at a significant cost to long-term outcomes in learning, behavior, health, and longevity."

Journal of Pediatrics quote, from Harvard center on the Developing Child:
An integrated scientific framework for child survival and early childhood development

(Journal of Pediatrics quote, from Harvard center on the Developing Child: An integrated scientific framework for child survival and early childhood development)


上記の引用の中に、「短期的な適応法」と書いてあるそのことが、「対処メカニズム (coping mechanism)」のことであり、ここには依存なども含まれてきます。

「自分ではどうすることもできない辛さ」を癒すために身に着けた「対処メカニズム (coping mechanism)」は、例えば過食することで短期的にはストレス解消になるかもしれないけれど、それが長期化すると命に係わる問題になってくるのです。

自分を癒し助けてくれたその行為そのものが、心の病や体の病になっていく。

小さな嘘みたいに。

小さな嘘を毎日ついていたら、それがその場を助けてくれたものだったとしても、毎日嘘をつき続ける生活に、心や体が苛まされていくみたいに。

そしてまた、生きるために身に着けたそれらの対処法 (coping mechanism)は、その人の「性格」となっていきます。

「性格」とは、本来の自分自身なのでしょうか?

「私はこういう人」と思い込んでいるものの中に、どれだけもの適応法(対処メカニズム)が入っています。

心の病にまではなっていなくても、いつも人に親切にしてしまう人、いつも気を使ってしまう人、完璧じゃないと気が済まない、頑張る人、なかなかやる気が起きない、小さな嘘をつく、責任感が強い人、重荷になりたくない、怒りっぽい、威張っている、私は頭が悪いかも、人を裁くのが好き、正義感が強い、言い訳が上手、ちゃらんぽらん、私は何もできない、人を裏切る傾向がある、一人が好き、何かに没頭しがち、とか、色々・・・。

「私ってこういう人」というそれら。

子どもの頃からそれらの性格が果たしてくれた「役割」、「機能」とは、何だったのでしょうか?


それらが自分のパーツとなる


今まで続けてきた対処法を取り除いていくと、まるで生まれたばかりのような、何も色づいていない自分があって、そこに繋がることがセラピーだと、ガボール・マテ医師も、私の多くのヨガの先生も、繰り返し、教えてくれいます。

あれやこれやの出来事が、自分に起こって来る前の、自分。

私たちが思考や感情として蓄積してきた事柄たちや、対処法も、そんなに簡単になくなるわけではなくて、頭では理解できても、生理的な反応(ドキドキしたり、身体が緊張したり)はいつまでも残っていたりします。

また、「対処メカニズム」があるお陰で、今までやってこれたということも踏まえると、対処メカニズムをいきなりなくすことはできないばかりか、それらを自分のパーツ(一部)として、認めてあげる思いやりを持ちたい。

今までありがとう、と。

これからも、たまにお世話になるかもしれないけれど、でもたぶん、私はもう大丈夫、あなたの助けはそこまで必要ないかもしれないんだよねって。

心の傷は、体に宿り、物の捉え方や考え方に宿り、視野を狭くし、人生の方向性を決定していきます。

自分の意志で思考を変えることができたら、そんな簡単なことはありません。

考え方を変えた(と思った)って、体(感情)は別の反応をしている。

体は硬直していたり、痛みを抱えていたり、叫びをあげていたりしています。

きっと叫びをあげている自分(傷ついた自分)がいるのなら、立ち上がってそれを守ろうとしている自分(対処メカニズム)もいるはず。

小さい嘘みたいな、その場しのぎの対処メカニズムを活用するとき、そのことに気づいている自分がいるのと、無意識な状態であるのとで、大きな違いがあるんだと思う。

高次な自分が、無条件の愛をもって、それらすべての自分のパーツ(部分)を意識の光で見つめていることができたなら、あらゆる自分のパーツに思いやりをもって寄り添うみたいに、共にベンチに腰かけるようなことができたらな・・・。 安全を感じる仲間と共に、そんなことが可能な空間の共有をする時間が、きっと、誰にだって必要なんだと思うのです。


自分はダメな親だと思う時・・・

「私の育て方が悪かった」ということを思ってしまう場合、そう思うことで自分は何を得ているのだろう。

「育て方が悪かった」ということは、どんな人が育ってしまったのだろう。

「悪かった」ということは、良くないものができたのだろうか。

母親として責められているように感じるのであれば、そう感じることで、自分は何を得ているのだろう。

責めているのは、誰なんだろう。周りの人なのか、自分自身なのか。

子どもの育て方を知り尽くしてお母さんになる人は一人もいない。そしてきっと、心の痛みをひとつも抱えていないという人は、この世の中にはいないと思う。

「私にも心に傷がある」と受け取るか。
「私の育て方が悪かった」と受け取るか。

思いやりがあるなと感じる方を、選びたいなと思う。

心の傷は、周りの人に投影されてしまうし、人の神経系はお互いに影響を与え合っているので、色んなことが無意識に伝わっている。
特に親子の間では。

感情はやっぱり、相手にどうにかしてもらおうというものではなくて、心の傷が原因で起こる感情たちには、自分が責任をもっていけるようになりたいな。そのためには、自分に正直に向き合う必要があって、思いやりを持ちながら、セルフケアをしてあげたい。

お母さんは子どもにお母さんにしてもらうのだから、子どものお陰様で親になれる。

私ももっと子どもが小さい時に、知っておきたかったなと思うことが沢山ある。そして子育てを通して、自分の中の知らない部分が沢山出てきた。

もう子どもは成人してしまって、今でも彼らには教えてもらうことばかり。時々自分はあの頃は良くない親だった、とか思ったりすると、たぶんそれを耳にした子どもの心も痛むんだろうなと思うから、あの頃の自分はもっと無意識で傷だらけだったのよね、と見方を変えてみたりする。


補足

この記事は、私がガボール・マテによる Compassionate Inquiry のトレーニングコースで学んだことのひとつを取り上げています。

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