#41 ワダツミの木

わたしは、祖父が大好きだった。

だから、祖父に向けて、祖父の好きな歌(杉良太郎の「すきま風」や山本譲二の「みちのくひとり旅」など)を、祖父の家のカラオケで歌うことで、祖父との意思疎通をしていた時期があり、歌うわたしの姿を祖父が嬉しそうに見つめてくれたり、褒めてくれることで、歌が好きになり、人前で歌うことも好きになった。

祖父が亡くなってからは、親戚が集まってカラオケをする機会も減り、もっぱら、お風呂の時間が歌の時間になった。

浴室に反響して声が伸びてゆくことが気持ちよくて、毎晩、声量など気にせず歌っていたから、夜、実家裏の神社を通って帰ってくる父に良く言われた。

「神社に入った瞬間から、歌声が聴こえたよ」と。笑いながら。

母になり、歌を歌わなくなったかというとそうでもなくて、マンションだというのに、わたしは、時折我慢できずに風呂場で歌う。

そのうち苦情が来るかしら……。
エントランスに苦情の紙が貼られたりするのかしら……。
と思いながらも、その文面を考えて笑うだけで、結局は、気にせず熱唱するわたしを、家族はいったいどう見ていたのだろう?

一番下の娘が幼稚園に入り、ぽっかりできた一人時間の中で、ひととき、ゴスペルを習っていたこともある。
毎週金曜日に青山のチャペルに通い、ゴスペルシンガーの先生の声量に引っ張られながら、ハイソな奥様方に混ざってゴスペルを歌った時間は、なかなか面白い時間だったように思う。

歌を歌うことも好きだが、わたしは、一曲の持つ世界観に浸りきることも好きだ。
小説を紡ぐときは、その物語に沿う曲をループで聴きながら書くので、一作書き上げるまでに、その一曲を何百回も聴いていることになる。
また、書かない時間も、一曲に執着する傾向があり、今、ループで聴いているのは、元ちとせさんの『ワダツミの木』だ。

*ワダツミとは、日本神話に登場する海の神。
作詞を手がけた上田現によると、歌詞の内容は「ある女性が、人を好きになるあまりに花になってしまう」物語であるという。(wikipedia)

先日、奄美大島に旅行に出かけ、夜のマングローブをカヌーで渡りながら、星空を見るツアーに参加した際、ガイドの男の子が、マングローブの森の中でこの曲をかけてくれたのだ。

水面にたゆたい、マングローブ越しに、天の川も流れ星も見える満点の星空を見上げて、この曲を聴く時間が自分の人生の中に訪れるなど、想像もしなかったな……と思いながら、異空間に入り込んだようなやさしい闇の中で、

「奇跡の時間だ……」

と感嘆のため息をついた。

森の中には、娘とこの旅をアテンドしてくれた大切な知人と、ガイドの子とわたし。

だというのに、ひとりきりで、宇宙とつながっているような感覚に包まれる。
歌詞のひとつひとつが、くっきりと耳に入り込んでくるのに、静寂は深く、その深い静寂の中で、無数の星々と対面する。

「ああ、なにもかも、決まっているのだな……。わたしの人生で起こりうる全てが、決まっていて、ただ、それを見て、触れて、感じているだけなのかもしれないな……。迷って、泣いて、混乱することも。味わう歓喜も、至福も、全て。ならば、抗うことなどムダなことなのかもしれない。力を抜いて、ただ、進むだけ。命の終わるところまで……」

頬を伝う涙をそのままに、曲が終わらないで欲しいと願いながら、そんなことを考えたひとときは、夢のようでありながら、確実にわたしの記憶に残る愛すべき現実であった。

その影響をもろに受け、奄美から帰ってからというもの、もっぱら、この曲をループで聴いているのだ。
元ちとせさんの声が、あの奇跡の時間にわたしをワープさせてくれるから。

景色と、わたしの心情と、美しき声。
セットで刻まれた記憶は、生涯消えることはないだろう。

ループで聴いているせいで、歌詞も覚えた。
耳にイヤフォンをさし、デスクでパソコンに向かうわたしが、曲の盛り上がりに合わせて、不意に歌いだすたびに、リビングでくつろぐ息子たちが、びくりと肩をあげる様子が視界に入り、笑いがこみ上げる。

2人の息子たちは、ひょんなことから、来る予定でなかったわたしのゴスペル発表会にも来ていて、わたしが歌好きなことも知っていることもあり、肩をびくりとさせるだけで、ほっといてくれる。

けれど、パソコンに向かいながら、急にファルセットをきかせて熱唱を始める母親を、思春期の息子たちはどう見ているのだろう……と興味はあるから、いつか、訊ねてみようと思っている。


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