見出し画像

仁川空港のハイネッケン

(仁川空港で帰りの便を待っているときにふと頭に浮かび、こんな風になってくれないかと、希望的観測を込めて書きました)

 ハイネッケンは飲んだ気がしなかった。
「こんなに不味かったかな」
 仁川空港のイタリアンカフェ。ナムヒョクは呟きながら空になった瓶を見つめた。窓の外には瀋陽に向かう中国南方航空の737が停まっていた。
 これから北朝鮮に戻ることになっているのだが、何の感慨も湧かなかい。前は任務が成功して「戻れば労働英雄か」とか思ったり、うまくいかずに処罰を恐れたり、何かしらの感情があったのだが今日は何もなかった。ただ虚脱感だけ。「この空き瓶みたいなもんだ」と苦笑いした。

 「統一しない」と金正恩が発言したというニュースを聞いたのは釜山の食堂だった。一緒にいた池民基は笑って「いやあ、政権が変わるとマスコミもこんなに変わるもんですかね。話にならん」と言った。池は地元の労働組合の幹部だった。
 「南朝鮮のデマもだんだん狡猾になるな」
 ナムヒョクも信じたくはなかった。しかしなぜかリアルに感じられたのだ。
 池を包摂したのは八か月ほど前だった。組合の活動家としては非常に能力のある男だった。あまり目立たずに、しかしシンパを獲得する能力はなかなかのものだった。地下組織を作っても当局から怪しまれている雰囲気は感じられなかった。自分より北朝鮮への忠誠心が強いのではないかと思ったことすらあった。とりあえず池を包摂したことで上から評価されたのは間違いない。今回会ったのは鄭基完保守党政権に反対するデモを組織させるためだった。

 池と別れてソウルに上がったのが一週間前。それから二日して召喚命令が届いた。しかし、何かが違う。ざらざらした違和感を感じながら帰国の準備を進め、今ナムヒョクは仁川に来ていた。

 少し離れたところにあるテレビに金正恩の姿が映っていた。「統一に関わるものを全て無くす」と発言したというニュースだった。韓国の大学教授がもっともらしく解説していたがそれは全く耳に入らなかった。

 「金正恩同志、では私の人生は何だったのでしょう」ナムヒョクはつぶやいた。
 学校の同期で五人が訓練中に死んだ。その時の姿は今も夢に出てくる。一緒に卒業した仲間でも二人は南に浸透中蔚山で工作員であることが発覚し銃撃戦の末射殺された。二人は日本に浸透するため工作船に乗ったが日本の軍艦に追われて結局船ごと自爆沈没した。自分もそう教育されてきた。何のために…。統一するんじゃなかったのか。

 もっともナムヒョク自身、統一が現実になるとは思っていなかった。いや、現実になると思わなければならないという強迫観念にとりつかれていたというべきか。しかし南朝鮮は来るたびにきらびやかに変わっていった。戻ったときの平壌は何も変わっていない。高層マンションは建っていたが電気も水もまともに来なかった。市場に行けば南のドラマのUSBを売っている。隠してはいるがどこでも手に入った。街を歩いていると「オッパ」とか南の言葉で話す若い娘にも出会った。

 「もう以南化環境館で教育する必要もないか」
 ナムヒョクは金正日政治軍事大学での教育を思い出した。南から拉致した人間や自分から北朝鮮にやってきた南の人間を使って南に浸透する工作員教育をする以南化環境館。南に送られる工作員は発覚することがないように言葉遣いから金の払い方まで徹底した教育を受けた。おかげで自分の言葉は完全にソウルの言葉になり、帰国したときに南の工作員に間違えられそうになったくらいだ。
 「平壌全体が以南化環境館になっちまうんじゃないか」
 そんなことを思い出していたとき、横からテーブルに缶ビールが置かれた。スーパードライだった。
 「日本のビールの方が美味いと思うよ」
 隣りに座ったのは皮ジャンパーにGパン、痩せて無精ヒゲを生やした四十代くらいの男だった。
 「(こいつがノムラか)」
 ノムラはナムヒョクと目を合わせることもなくつぶやいた。
 「日本に行ったらいくらでも飲めるから楽しみにな。隣の席に座るが搭乗するまでは気を抜かないように。ナカムラ君」
 そうだ。自分はこれからは「ナカムラ・タダシ」なのだ。日本政府がどこまで信頼できるのか分からないが、もう一年前に決めていたことだ。
 「あんたが痩せてて良かったよ。もうデブとお付き合いするのは御免だからな」
 ナムヒョク、いやナカムラはスーパードライを一気に飲んで札幌行きの出る搭乗口に向かった。テーブルの上には空瓶のハイネッケンが残っている。その空き瓶にざらざらした感覚が残っているような気がした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?