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Tokyo Ten thousand scenery「西新橋の父」

20代に終わりを告げる昭和61年…。今から36年も前のことですね。

当時は西新橋にあった農業の業界新聞社で働いていました。一応、農水省の農林記者会に籍を置く新聞社でしたが、農協に寄生してようやく商売が成り立っているような吹けば飛ぶような小さな会社でした。

僕はそこの新聞記者ということなんですが、当時から「まともな文章」を書けなかったので、新聞記者だなんて自分から名乗る自信はありませんでした。しかし、そこの記者たちは、さすがに文章は巧みであり、業界誌特有の味がありました。大手新聞社に入れなかった反動からか異様にプライドが高く、全員が自分たちの会社の弱小さを忘れて、一流の新聞記者であると威張っていました。

僕は、結局、約2年勤めて辞めましたが、その2年間でいろいろな体験をするのです。農業記者としての体験ではなく、だらしのない私生活での方です。それは、あまりにも人としては容認できないことですから、現時点で書くことはしません。

編集室近くにあった日立のショールームが昼食後のたまり場だった。

ああ、新聞社を辞める頃に昭和の終わりを体験しましたね。同僚たちと皇居前に行って、周囲に屯して手を合わせるたくさんの人の動きを空虚な気持ちで観察したものです。

このビルの2階に編集室があった。

この西新橋にある佐久間ビルの2階に新聞社の編集部がありました。愛宕や虎ノ門など、会社周辺で昼食をとったあと、近くにあった日立製作所のショールームに入り浸って、午後の仕事が始まるまでPCゲームなんかで遊んだあとにボーッとして過ごしました。

つまらない毎日でしたが、だらしのない私生活の方でストレスを発散していましたから、ある意味充実していたのではないかと思います。たまに、この時代に戻りたいなんて思います。今のように「明日食うために悩む」なんてことがないだけ幸福でした。

さて、この頃に父親と出会ったことがあります。いつものように日立のショールームから編集部に向ってブラブラと歩いているときに、父が、いかにも柄の悪い5~6人の人たちと新橋に向って歩いていたんです。そんな連中と歩いている父は、何か異様でした。異様というのは、誰ひとりとしてスーツを着ず、ネクタイをしていなかったからです。父も同じです。とても働いている人間に見えなかったからです。僕が父に抱いていた印象は“常にお洒落にスーツを着こなしている人”でしたから異様に思えたのですね。

さて、僕が気づくと同時に父も僕に気づいて、柄の悪い人たちに「ちょっと…」と言って離れて僕の方に歩いてきました。

「どうしたの?」と僕が言うと、
「ああ、仕事だよ。お前こそどうした?」と答えました。
「ここが(編集室の建物を指さして)今働いている会社なんだよ」
「そうか…たまには帰って来いよ。じゃあな」
「うん」
たったこれだけの会話…。

父は、また柄の悪い人たちと、道を横一列になって新橋の方に歩いて行きました。計算するとこの時の父は60歳でした。

父は若い頃から全国展開をしていた某住宅販売会社に勤めたあと、福島で自分の建築会社を創りました。しかし、5年で倒産。福島にいられなくなり、つてを頼って遠く神奈川にあった建築会社で働くことになったのです。僕達も一緒に神奈川に移り住みました。

神奈川に移り住んでから数年間、僕は自宅で暮らしながら、漫画のようなモノを描いたり、目黒の美術研究所に通ったり、スポーツ新聞にイラストを描いたり、フリーライターの手伝いをしたり、二子玉川のレコード屋でバイトしたりしていました。

今考えれば、20歳から25歳までの5年間はそんな生活をしていたんです。しかし、あるとき父から「いい加減、独り立ちしろ」と言われて、仕方なく東京でひとり暮らしを始めました。飽きっぽい性格ですから、転々と職を変え、また5年という時間が経ってしまいました。若い頃の5年という時間は長いですよ。50歳を越えてからの5年とは比較にならないほど長く感じます。

父が柄の悪い人たちと歩いていた編集室前の通り。今も変らない。

西新橋でみかけたあと、僕はだらしのない私生活を謳歌していましたから、実家のことなど考えることもありませんでした。

父はその後、定年となって自宅で過ごすようになりました。余力で定年後に働くということもなく、近所のパチンコ屋に通ってブラブラしていたようでした。しかし、しばらくして要因は不明ですが鬱状態になり、日がな一日ボーッとして暮らすようになりました。

実家で両親と暮らす妹が父を病院に連れて行くと、医師から「パーキンソン病ではないか?」と診断されて、薬を処方してもらうと更に具合は悪くなり、自宅で引きこもるようになりました。今思うとパーキンソン病ではなく通常の認知症だったような気がします。

強調しておきますが「病院選びには、細心の注意をはらうようにしてください」

父は74歳で死にますが、その後しばらくして父宛の1枚のハガキが届きました。そのハガキの内容は「父が共同責任者に名を連ねていた会社が倒産して、負債額は3億円、それを支払え」というものでした。

その話はいずれまた…。




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