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災害の多様性「台風」1

台風6号が南日本に居座り続けていると思ったら、太平洋上に台風7号が発生して、日本列島に向っています。もう、いい加減にしてほしいですね。

日本は地震国であり、火山国であり、台風通過国という3S国(勝手に名付けました。地震、火山、台風という3つの災害に常時見舞われているということです)です。

亜熱帯や熱帯で、海から立ちのぼる大量の水蒸気が上昇して空気が渦を巻いてできるのが熱帯低気圧で、この熱帯低気圧が最大で風速17.2m/sを超えると台風となります。要は巨大な竜巻です。構造は同じですが、台風は雲を沢山抱えて巨大化するのです(参照:Wikipedia台風)。

第66代天皇の一条天皇の時代の永祚元年(989年)8月13日の夜、台風が近畿地方を襲いました。「京阪地域に大風が吹いた」と扶桑略記に記録されています。この台風は「永祚の風」と呼ばれています。

夜、天下に大風。皇居の門・高楼・寝殿・回廊及び諸々の役所、建物、塀、庶民の住宅、神社仏閣まで皆倒れて一軒も立つもの無く、木は抜け山は禿ぐ。又洪水高潮有り、畿内の海岸・河岸・人・畑・家畜・田この為皆没し、死亡損害、天下の大災、古今にならぶる無し(扶桑略記)

比叡山の鐘楼の鐘も吹き飛ばされて、七つの僧坊を破壊してから谷底に落ちたとも記録されています。

僕が持っている日本書紀、続日本紀、日本後紀には異常に多発する地震や日蝕に干魃の記録はありますが、台風の記録はないようです。

「六国史の台風記録」

日本の正史「六国史」のうち、僕は日本書紀、続日本紀、日本後紀の3つしか持っていないのでよくわかりませんが、僕が持っている3つをペラペラとめくってみると、火山噴火や天武天皇時代の「白鳳大地震」のように地震や日蝕、疫病の記録が異常に多いのですが、台風については書かれていない・・・と思ったら沢山ありました。当時は台風とは言いません。「大風」と言っていました。

手元には六国史のうち日本書紀(神代~持統女帝までの記録)、続日本紀(文武天皇~桓武天皇中期までの記録)、日本後紀(桓武天皇後期~淳和天皇までの記録)があります。そのうち「続日本紀」「日本後紀」から台風だと思われる記録を以下に抜き出してみます。

「続日本紀」

“文武天皇の時代”

文武天皇2年(698)9月7日、下総国(現在の千葉県北部と茨城県南部)で大風が吹いて、民衆の住居を壊した。

大宝2年(702)8月5日、駿河(現在の静岡県周辺)・下総の二国で大風が吹き、人家が壊れ、稲の収穫に被害が出た。

慶雲2年(705)7月29日、大倭(やまと)国に大風が吹き民家が損壊した。

慶雲3年(706)7月28日、太宰府から「管内の9国(筑紫・筑後・豊前・豊後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩)と三嶋(壱岐・対馬・種子島)は日照りと大風で、樹木が抜き倒され穀物を損ないました」と言上した。

“元明天皇の時代”

和銅元年7(708)7月14日、隠岐(隠岐の島)に長雨と大風があったので、使いを遣わして物を恵ませた。

“聖武天皇の時代”

天平15年(743)7月5日、出雲(現在の島根県周辺)国司が次のように言上した。「楯縫・出雲の二郡に雷雨が常と異なって激しく降り、山岳が崩れ落ち、神家をこわし田圃を埋めてしまいました」と。

同年8月9日、上総国司が次のように言上した。「去る7月に大風雨が数日に及び、長さ三、四丈から二、三尺までの雑木が一万五千本ほど、国内の梅紅漂着しました」と。

天平16年(744)5月4日、肥後国(現在の熊本周辺)に雷雨と地震があった。八代、天草、葦北の3郡の官舎と田290余町(2.9平方キロメートル以上)、民家470余区、1520余人が水中に漂ったり、水没したりした。山崩れが280余ヶ所、40余人が圧死した。*地震被害のようですが、雷雨とあるのが気になります。多分、台風ではなく集中豪雨だったのでしょう。一応記録しておきます。

地震も頻繁に起きています。ついでに記録しておきます。

天平17年(745)4月27日、この日、一晩中地震があり、それが3昼夜続いた。美濃国では国衙の櫓、館、正倉、仏寺の壁や塔、人民の家屋が被害を受け、少しでも触れると忽ち倒壊した。以降、5月1日から18日まで、7月17日から8月29日、翌年にかけて頻繁に地震が発生しています。

“光仁天皇の時代”

宝亀3年(772)5月26日、西北方面の空中で音がした。雷鳴のようであった。

同年6月16日、虹が架かり、太陽の回りを取り巻いた(日暈のことだろう)

同年6月19日、京内に隕石が落ちた。その大きさは柚子くらいであった。数日で止んだ(ということは隕石が連続して落ちてきたということか?)

同年8月6日、異常な風雨があって、樹木を根こそぎにされ家屋が壊された。これを占ってみると、伊勢神宮の月読神の祟りであることが分った。

同年9月21日、渤海国の客を送る使いの武生連鳥守らが、艫綱を解いて海洋に出たところ、にわかに暴風に遭い、能登国漂着してしまった。

という具合に毎年、7月から9月くらいまで各地で大風の被害に遭っています。所謂、台風の季節です。

続日本紀だけでなく、日本後紀にもたくさんの大風の被災記録がありますが、キリがないのでここでやめます。日本書紀、続日本紀、日本後紀とも天皇記録なのですが、そもそも天皇のことはどうでもいいのです。面白いのは自然災害や自然事象についての記録です。是非、読んでみて下さい。

ひとつだけ、日本後紀の桓武天皇の治世時の延暦16年8月に「地震があり、暴風が吹いて左右京の坊(京内の区画)の門や屋舎の多くが倒壊した」とあります。

「蒙古襲来」

以降の時代も、台風のことが記録されています。

有名なのは「蒙古襲来」での神風です。

鎌倉時代の1274年「文永の役」と1281年「弘安の役」にモンゴル帝国、南宋&高麗による元寇(蒙古襲来)がありますが、双方共に、襲来時に台風が吹いて元軍を壊滅させています。

神の威力で吹くとされている風。暴風雨の多い日本では風に対する恐れから、神の威徳に従わないと神風で罰せられるという信仰があった。歴史上では文永(ぶんえい)・弘安(こうあん)の役(1274、1281)の二度にわたる蒙古(もうこ)の軍船が、博多湾で壊滅させられたのがその代表的な例である。

日本大百科全書ニッポニカ「神風」より

江戸時代にも台風による大きな被害が発生したことがありました。安政3年の大風災と言われています。安政というのは嘉永7年(安政元年)ペリーが前年に続いてやって来て通商条約をばせた年です。ペリー来航の年には6月から11月にかけて、伊賀上野地震、東海地震、南海地震、豊予海峡地震といった大地震が発生しています。つまり「安政の大地震」です。

「安政3年の大風災」


安政3年(1856)9月23日(8月25日)から24日にかけて江戸を含む関東地方を台風が通過しました。江戸の近くを巨大台風が通過したことで、江戸の街一帯が暴風雨や高潮などの被害を受けたことによって大きな被害が発生したのです。暴風雨によって、火災が起きたことも被害を拡大させたようです。

この台風による死亡者は10万人と言われ、それが現実であれば、日本史上、最大の台風死者数となります。

日本は台風の通過国ですから、毎年のように大きな被害が発生するのです。

「昭和の台風災害」

昭和時代には、以下のような台風災害が発生しました。

室戸台風(昭和9年9月21日、死者2702人)、枕崎台風(昭和20年9月17日、死者2473人)、カスリーン台風(昭和22年9月15日、死者1077人)、洞爺丸台風(昭和29年9月26日、死者1361人)、狩野川台風(昭和33年9月26日、死者888人)、伊勢湾台風(昭和34年9月26日、死者4697人)などです。

詳細については気象庁の「災害をもたらした気象事例(昭和20~63年)」を参照下さい。

つづく


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