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新撰組覚書「血筋」

幕末の日本を悪い意味で揺るがせた水戸藩の藩主徳川斉昭は、正室・吉子女王(徳川慶喜の母)や側室・万里小路睦子(徳川昭武の母)ほかの女性に、男女合わせて37人もの子を産ませている。それが徳川慶喜、昭武、喜徳などである。

僕は、徳川幕府を崩壊に導いたのは、多数の過激テロリストを排出した水戸藩だと思っている。そのくせ明治維新が成功すると水戸藩の功績は無視されて薩長が権力を掌握してしまうのである。水戸藩は、諸政党と天狗党によるいくつもの内紛により自滅したのである。

徳川幕府の破壊者、斉昭、慶喜親子

徳川幕府破壊者といえば徳川斉昭、慶喜親子である。いや、斉昭以前にも問題がある。徳川家の人間でありながら、主に天皇史を著し尊王攘夷派の聖書となる「大日本史」を編纂し始めたのが徳川光圀だ。これが水戸学と称されて過激派テロリスト吉田松陰らに大きな影響を与えた。それは尊皇攘夷などという絵空事の思想につながり、いつの間にか攘夷の矛先が変って倒幕へ結実することになるのである。

そもそも幕末の動乱の発端は、開国(日米通商条約)と将軍(家定)後継者選び(継嗣問題)だった。徳川慶福(家茂)を擁したい南紀派と呼ばれる井伊直弼らと、一橋慶喜を擁したい一橋派の斉昭(慶喜の父)、松平春嶽、島津斉彬(篤姫を家定の正室にして、慶喜を後継者に選ばせる計画→失敗)、山内容堂、伊達宗城らの暗闘だ。結果的に南紀派が勝利して井伊直弼は大老に就任し、将軍継嗣には家茂が選ばれる。さらに井伊は独断で日米通商条約を結ぶ。

登城日以外に登城して継嗣問題と米国との通商条約に抗議した斉昭は、水戸での謹慎を命じられ、それが戊午の密勅、安政の大獄によって確とした尊皇攘夷思想が生まれ、桜田門外の変以降の過激テロリズムとつながるのである。

一方、徳川慶喜は、将軍継嗣候補に挙げられるという春嶽や斉彬が思うような英明果断な人物ではなかった。自らを頼って水戸から上京しようとした天狗党を制圧し、言われるがままに大政奉還を実行し、鳥羽伏見の戦い時に江戸まで逃げ帰り、恭順と称して輪王寺宮や篤姫、山岡鉄舟、勝海舟らに、江戸に進軍中の西郷隆盛や有栖川宮に命乞いを頼むという無能で卑怯な人間であった。

会津藩主・松平容保の養子となった松平喜徳とパリ万博に派遣された徳川昭武

斉昭の子のひとり松平喜徳(のぶのり)は、慶応3年に会津藩主・松平容保の養子となり、戊辰戦争時の会津戦争を戦った(といっても視察しているだけだが)。

wikipedia「松平喜徳」へ

慶応4年5月には会津藩の病院がある福良に滞在し、入院する島田魁など新撰組隊士らを見舞っている。7月には土方歳三は白虎隊の一・二番組隊士らと一緒に喜徳と親しく話をしているというエピソードがある。

会津藩主・容保は、当初、喜徳ではなく、のちに水戸家を継ぐ徳川昭武を養子に迎えたかった。

徳川昭武というのは、慶応2年(1866)に清水徳川家を相続したあと、翌慶応3年(1867)にパリ万博に派遣された。同行したのは会計担当の渋沢栄一、医師の高松凌雲らがいた。ナポレオン3世に謁見、翌年の慶応4年(1868)、薩長土肥の西軍(新政府軍)に帰国命令を受けて帰国。明治2年には水戸徳川家を相続する。明治16年には隠居届けを提出し、千葉県松戸市の戸定邸に移住した。明治25年には松戸徳川家を創設し、狩猟に写真撮影などの趣味を謳歌。昭武は自転車や狩猟、写真、園芸などの多彩な趣味を持っていた。隠居後には盛んに徳川慶喜が居住する静岡との間を往来し、慶喜と一緒に写真撮影や狩猟に出かけるなど交流を深めた。特に写真撮影には熱心で、自ら現像も手がけ、現在もなお多くの写真が残されており、今も松戸の戸定邸に展示されている。明治43年(1910)7月3日、水戸徳川家の小梅邸にて死去する。享年58歳。

昭武

徳川昭武

徳川喜徳は、会津籠城戦ののちに降伏。明治3年(1870)容保とともに斗南藩(現在の青森県東部)預かりとなるが、同年8月に東京に戻る。明治6年(1873)には、徳川斉昭の22男・松平頼之が死去したことで、容保との養子縁組を解消して頼之の後を継いだ。

明治9年(1876)10月、横浜港を出発し、フランスに留学。明治11年(1878)6月に帰国。明治17年(1884)には華族令の公布に伴って子爵となる。

明治24年(1891)6月3日、37歳で死去。子はない。

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