眠っている間も生きているのだから、その時に起こったことの印象が活動している時に影響するのは自然なことだと思うのだけどな。


夢じゃない?

夢でみたんだろう。。


と、片付けられることが多いです。

言い張ってもしょうがないので黙るけれども、たとえそうだとしてもだからなんだという気持ちが残ります。

世界のKENZO、高田賢三さんが亡くなった時もそうでした。あれ、また新聞に同じ記事がでていると思って日付を確認したら前日の訃報。

ふーん、とは思うけれど、自分の記憶が変だとも思えなくて同じくらいの分量のリアル感で目の前の記事を見る。写真も一緒。時間的には1ヶ月以内の出来事としての記憶があるのだからまあ混ざっても仕方ない、こういうことは時々あるからと思う。どちらかといえば記憶の方が鮮明なのはいつものこと。

未来の記憶

とかいうと、何かのキャッチフレーズみたいでカッコいいですね。そうか、そのコピーを考えた人も同じだったのかもしれないと思うとやさしい気持ちになれました。

そういうふうな時に思い浮かぶのは時間の流れ、チクタクチクタクと時計回りにまわり続ける秒針とカレンダーがめくれて飛んでいくイメージのまっすぐな経過で直線の宇宙です。

直線と曲線はたどりつくところが違うのか、長さが違うだけなのかわからないけれども、時間はとりあえず直線的でだから過去と現在と未来という単純明快で容易にまざり合わさらない地球上での解決方法なのかな。

そこに割り込んでくるのが『睡眠時の夢』や空想時の『スペース』で、無限とつながっている安心でかなり絶対に近いところ。リアル感がハンパない 笑

そういうことを言ったり、まさか書いて公表するなんて思ってもいなかったけれど今かいている不思議もソコとつながっているからいいやって思える。

母胎の羊水。

へその緒。

神さま。

絶対。

永遠。

怖かった、恐れていたことばたちが
なんのこともなくむしろ安心に近いほうへ傾いて並べおけた、今。

いやーーー

“ワタシ”のマインドのようなものもここまできたか、と感慨深いけれども年齢を重ねていくことはお尻がさがって切ないとかシミがたくさんできて嫌とかの反面たのしいこともあるのです。ね。


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