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第11回 映画『WORTH 命の値段』を語る!!〜あの日を忘れない。あなたとわたしの間に問題が起こる時、そこに見落とされてしまっているものは何だろうか?私達が友人、恋人、家族、全ての他者に向き合う時に求められるまなざしとは何なのか、そして私たち自身に求められる幸せに対する構えとは何なのかを考えてみよう。

くに:ちょっと編集が遅れちゃったけど、今年もこの日が来たということで、この映画にしましょう。

たけ:『WORTH 命の値段』ですね。911のテロについては、物凄い記憶に焼き付いてるねー。入院中のベッドでいきなりタワーに飛行機が突っ込む映像がどこチャンネルまわしても流れてた。

くに:たけさ、その時も入院していたの?スラムダンクの時も入院中に読破したって言っていたけど、、、。

たけ:ええ、この時は肺炎で入院してたね、、、、。中学生の時だった。なんか入院ばっかしてる人みたいに見えるけど、たまたまだから!!

くに:入院ってある意味、色んな出会いの場でもあるよね、、、、。とりあえず、あらすじはこんな感じ↓↓

優秀な弁護士として活躍するケネス・ファインバーグは、議会によって2001年9月11日に発生した同時多発テロの犠牲者補償基金の管理責任者に任命される。責任者として多くの人々の命を奪ったこの事件の犠牲者に支払われる補償金の分配を担当することに。犠牲者たちの怒りや悲痛な叫びと、政府や事件関係者たちとの間で板挟みになりながら、ファインバーグは交渉を続けていく。

くに:どーだった??

たけ:尋常じゃない人だなっていうのが率直な感想だよね。気が遠くなるというレベルのスケールじゃない、途方もない仕事をよくやったよなあ、という、、。問題を解決しようとして問題が起きてしまうという、とても辛い状況になったにも関わらず、最後までやり遂げたファインバーグさんはほんと凄い人だなあと。あとは、「人間に納得をもたらすものは何か?」っていうことがとても伝わってきたよねえ。タイトルが「命の値段」で、テロの犠牲者遺族の方々に国から補償金が支払われるということになるんだけど、どのように人々に納得がもたらされるかというプロセスがまさに大事じゃない?簡単にいうと、ファインバーグ弁護士は、犠牲者全ての人に公平になるような補償額を決める為のベースの公式を作って、そこに犠牲者の方の年収といったような個々に異なる条件を数値として代入して、最終的な補償額を出そうとするけど、案の定その説明の途中から遺族の方々は猛反発。そりゃそうだよね、同じ命であるのにも関わらず、補償額が全然違うというケースだらけなわけだから。さて困った、どうするというストーリーだね。

くに:ファインバーグ弁護士は最終的に素晴らしい成果を出すけど、この時点で猛反発くらってしまった決定的な原因は何だったんだろう?どんな視座が欠落していたんだと思う??

たけ:難しいね、、、。
911テロの犠牲者は約7000人だったね。東日本大震災の犠牲者数は確かおよそ2万人だったかな。こういったテロとか災害で大勢の命が失われた時、その数をどう捉えたらいいのかって凄く考えるんだけど、ファインバーグさんにしたら7000という数字はどう見えていたんだろうか。(あくまでマイケル・キートン演じるファインバーグさんを見たテイでいうよ(笑) 単に「大勢の犠牲者数」と見えてたのか、「家族がいて友人がいて愛する人がいて、その人だけしかない人生を歩んだ1人の人間」が7000人いた、と捉えていたのか。この二つの視座は決定的に違うよね。おそらくファインバーグさんははじめ前者の視座に立っていたんじゃないかな?その大勢の犠牲者の方に公平に補償金を支払うための公式を作って、それを元に補償金を算出すれば誰しも納得すると考えたわけだけど、犠牲者の遺族の方の視座というのは、おそらく全く違ったんじゃないかな。AさんとBさんは全く違う人生を歩んだ人でも、その公式に当てはめて全然違う補償額になれば、AさんとBさんの命の価値は全然違うというように、ファインバーグさん自身そう思っていなくても
遺族の方からしたらそう受け取ってしまわざるを得ないよね。ここではっきりするのは、見てるものが全く違う、ということだよね。ファインバーグさんには、犠牲者遺族の方々のように犠牲者の方々が見えてなかった。ちょっとわかりにくい、、?

くに:わかるわかる。「約7000人の犠牲者の方それぞれに支払う補償金を決める」というのがファインバーグさんの仕事なわけだけど、犠牲者の遺族の方一人一人からすると、7000人という数自体は全く関係ないというか、意味がないもんね。(表現難しい、、、) おそらく最初のファインバーグさんは、
遺族の方のように世界でたった1人しかいない家族、恋人、友人が亡くなってしまったという捉え方ができてなかったってことだよね、それは、無理もないのかもしれないけど、結局、この仕事を成し遂げるためには絶対に必要な視座だった。人間が何か利害の調整をしようとする時、見ているものが違ったり、まなざしの先が違う限り、解決には至らないんだなあと本当に思ったよね。

たけ:そう。で、収集つかなくなっちゃう。そこから色んな人のアドバイスからもらって舵を切るね、遺族の方一人一人と話をしていくんだよね〜。
まさに、ここでファインバーグさんは遺族の方と同じ視座に立とうとする。果てしない時間を要するけど、これしかないと確信する。結果的に、ほぼ全ての遺族の方の補償金を決めることができた。「同じ視座に立つ」「同じものを見る」ということは、どういことを意味するんだろうか。それはやっぱり、相手に対する「敬意」を意味すると思うんよね。自分のものさしを一旦捨てて、あなたのスピードに合わせますっていう姿勢が、相手に心を開いてもらう第一歩だよねたぶん。その前提があってでしか共有できないもの、導けない答えがある。「敬意」をお互い感じ合えると、エネルギーが生まれるじゃん?それが解決へのブーストになりえる唯一のきっかけなんじゃないかな?遺族の方々に思いを吐き出してもらうという感情的な側面から寄り添うっていう姿勢もすごく重要だったんじゃないかな。自分の怒りや苦しみ、辛さを誰にも受け止めてもらえない状態で何かを受け入れろ、と言われても無理で、いわゆる心理学者マズローのいう「黒い力」ってやつ。その怒りや苦しみ、辛さを受け止めてくれる人がいると、そこでもまたポジティブなエネルギーが生じるんだと思う。

くに:なるほど。被害者遺族の方々が納得いかなかったことというのは、補償金の金額そのものというより、ほかの人と比べることで明らかになる不公平さ、なんだよね。この点、少し前に心理学の話になったポイントにも通じるよね、「あなたの幸せはあなたの隣人が決める」っていうやつ。つまり、他人の年収と自分の年収を比較して、自分が優位か劣っているかで幸せが左右される。じゃあ他人がいなけりゃ幸せになれる?と言ったらそんなわけなくて、人間は一人で生きていけないから、自分の周りにいる他人によって生活が支えられている。この矛盾からは不可避だよね?

たけ:でもさ、もし自分と他人と比べて優越感をや劣等感を感じてしまっている人がいたとして、その人に、他人と比べた結果、なぜそれがあなたの幸せを左右するのですか?と聞いたら、はいそうですって答えられる人いるんだろうかね、、、。それすなわち、自分自身の幸せを決めるものがないっていうことを意味しちゃう、、それってある種の屈辱というか受け入れ難いことだよね、だから代わりとなる尺度として他人の収入とかそういったものを利用してしまっているとしたら、、ほんと残酷だね。そうなると、もう負の悪循環。「あなたの大切な人は他の人と比べられるものではない、一つ一つの命が代々不可能なもの」つまり「約7000の命」ではなく「世界でたった1つの命が約7000」というようなファインバーグさんの捉え方が、解決への切り口になる行動に繋がったんだろうねー。

これって、日々の生活にもなくてはならない構えだよね。その問題はどう捉えるべきなのか、そもそも解決すべき問題なのか?自分のものさしを捨てて、相手と一緒のスピードで走れるているだろうか?行動そのものと行動の動機を区別できているだろうか?あなたとわたしは今、同じものを見ているけど、同じ見方ができているだろうか?もし何か問題が起こっているとしたら、何かしらのズレが生じているんじゃないか?ズレが生じていることにそもそも気づけているか?気づくためのきっかけになりうる仲間の声を聞くことができているだろうか?

くに:自分と他者はそもそも違う、そんなみんなで世界はできてるからうまくいかないのが当たり前。だから問題が生じるのは当然。だったら、自分はどういった振る舞いや構えが必要なんだろう?というのはもう明らかだね。
今回もありがとう!!

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