2023年2月に読んだ本

1.美術の物語

 エルンスト・H・ゴンブリッチはオーストリア出身の美術史家であり、同氏が書いた本書は数多の改稿、何か国語もの翻訳を経て、今もなお読み継がれている。

 序文にも書いてある通り、本書ははじめて美術史(=西洋美術史)に触れる人向けに書かれており、具体的には、数千も数万もある絵画や彫刻、建築作品から、美術史において特に重要と思われる作品を選りすぐってフルカラーで掲載している。このため、本文に出てくる作品名をスマホやパソコンでググらずとも写真をすぐさま参照できるうえ、本文で引用される作品は全て図版を同時に掲載しているという親切設計であるから、多少値は張るものの、間違いなく購入の価値があり、再読の価値があり、枕頭の書とする価値がある。

 内容についてはここで多く触れる必要もないであろうが、本書で言及される美術史とは、時間軸をおおむね紀元前15000年前~1980年代、空間を西洋~オリエント世界に限ったものであるから、言わずもがなそれより以東の、アラビアや中国、日本、その他ラテンアメリカ等にはほとんど触れないため、「西洋美術の物語」という留保をつけて読むのが良かろう。しかしながら、西洋(厳密にはイギリス、フランス、ドイツ、オーストリア、スペイン、イタリア、ギリシャを中心とする西欧世界にエジプトが加わっている)に限ってみても、詳述するに余りあるほどの芸術的実りを果てしない時間の中で生み続けてきたのであるから、それもやむを得ない。

 そして、ゴンブリッチの描き出す美術史では、狩りや採集の成功を祈る魔術的な役割を持つ絵画に始まり、エジプトの博物学的興味を反映した壁画、古代ギリシャの「動き」を追求した彫刻、ローマのギリシャ的精神を受け継いだ自然の丁寧な模倣に至り、そしてゲルマン人の大移動によって一度終止符が打たれる(暗黒時代への突入)。その後、厳格なローマ教会が芸術を偶像崇拝に連なるものとして弾圧するが、ビザンツ帝国では「文字を読めない信徒への布教道具として有用」であるとして、ここに宗教画の始まりが見いだされる。それはやがてローマ教会にも伝播してゆくが、その内容としては、ギリシャ・ローマ世界で頂点を見た自然の模倣とは全く異なり、遠近法やデッサンを全く気にしない、宗教的教訓を伝えることが第一の職業的絵画であった。それが、13世紀にジョット・ディ・ボンドーネによって芸術としての立場を獲得し、ここに至ってルネサンスが始まる(ゲルマン人の大移動からルネサンスに至るまでを「中間の時代」として、「中世」と呼ぶらしい)。それからマニエリスム、バロック、ロココ、そしてロマン主義や新古典主義に派生し、印象派が勝利を勝ち取り、キュビズムや表現主義といったアヴァンギャルドへと至っていくが、その過程を詳述するには1000ページあっても1割ほども抜き書きすらできない。

 本書を読めば、一応最低限の西洋美術史の知識は得られるだろう。加えて、巻末には豊富な参考文献も掲載されているから、その後の読み物にも迷うことがない。美術史の本を読みたいが何から読めば良いのか分からない――そんな人に自信をもって読める一冊である。

2.バロックのイメージ世界

 最初に申し上げておくと、マリオ・プラーツの著作について理解し、そして何事か気の利いたことを二、三言付け加えようと試みるのであれば、せめてプラーツの博学のうち10分の1を修めていなければ務まらないだろう。それはルネサンスからロマン主義、19世紀末芸術に至るありとあらゆる文学者、画家、彫刻家の作品を時間・空間においてくまなく把握することであり、したがってアマチュアがいきなりこれを読んでも理解が追い付かない。それにはプラーツの文章――<プラーツ風>とも呼ばれる独特な晦渋さのある文体も手伝っているが、本書の場合、インプレーサやドヴィーズ、エピグラムといった一見見慣れぬ単語が、定義づけを経ずに使用されている面も手伝っているのではないか。

 インプレーサという単語で検索をかけると、インプレッサから派生する車がヒットするほかは、本書にも幾度となく引用されるジョーヴィオの『戦いと愛のインプレーサについての対話』が出てくるばかりである。同書の紹介文によると、インプレーサとは「君公や軍人や芸術家などの個人が身につけている、モットーとイメージから構成される象徴的な図案」であり、インプレーサは即ち個人を特定するいわばマイナンバーのようなものらしい。その点で、一般的な訓戒などを表すエンブレムとは意味合いが異なるわけだが、本書によれば、エンブレムとインプレーサはしばしば混同され、エンブレムからインプレーサに引用され、また逆もしかりという現象がしばしば表れていたとのこと。

 プラーツはこうした図案の起案やエピグラム(端的に言うとウィットに富んだ短詩)を「綺想」の名のもとに分析していき、「綺想」はどの点において表れたか、そしてそれはどのようなルートで、どのような方法で、どのような仕方で伝播していったかを明らかにしていく。それはイタリアからフランス、そしてドーバー海峡を越えてイギリスに至る(当時のイギリスは印刷術が発達しておらず、エンブレム集の図案がお粗末であるという面白い指摘もあった)壮大なイメジャリーの叙事詩であるが、それを辿るには本書を読むことをおいて他にないため、このあたりで内容を紹介する筆は置いておこう。ただ、世界初のエンブレム集であるアンドレア・アルチャーティの『エンブレマタ』を始めとする各国のエンブレム集、フランチェスコ・コロンナの『ヒュプネロトマキア・ポリフィリ』などの文学作品の縦横な参照は、読んでいて知的興奮が収まらないことは言い添えておく。
(なお、本書で引用されるエンブレム集は邦訳が出ているものが多いので、興味があれば↓を読まれたし。伊藤先生に感謝)

3.肉体と死と悪魔 ロマンティック・アゴニー

  オタクちゃんの中にも愛好者の多い澁澤龍彦をして「私はこのエロスとタナトスの象徴を散りばめたデカダン文学百科ともいうべき名著から、サドやユイスマンスやペラダンを追求するための、どれだけ多くのヒントを得てきたことであろう」と言わしめた名著。2.で触れた<プラーツ風>の文体がここでも縦横無尽に炸裂しているが、これを書いた当時、プラーツは弱冠34歳だったというから恐れ入る。というのも、原著は英語で書かれているのだが、著者の母語であるイタリア語はもちろん、フランス語やラテン語、ギリシア語といった種々多様な言語で書かれた文学作品を原文で引用しているためであり、その点で訳者陣の努力には脱帽の思いである。怪物か?

 さて、本書の構成は極めて単純明快であり、18世紀末に称揚されたメデューサ的美(=欠落や奇形が纏う美)の分析を独立的に行う。そして次章で、ミルトンの『失楽園』の主人公であるサタンから始まってバイロンの諸作品の主人公において結実する悪魔的主人公(かかわる女性を残らず不幸にせずにはいられない悪魔的主人公)の系譜を考察する。そしてその根底に、まさしくマルキ・ド・サド(聖侯爵)の悪の哲学が横たわっていることを指摘し、その萌芽を彼の作品まで遡らせる。プラーツに言わせると、サドの作品は文学的香気には乏しいが、それでも文学史上において果たした役割には特筆すべきものがあり、それこそが『悪徳の栄え』と『美徳の不幸』において登場人物に語らしめた悪の哲学なのである。こうした哲学がバイロンやラドクリフ、ルイスの悪魔的主人公の登場する土壌をはぐくんだと指摘する。この点が本著最大の新奇性、つまりサドの文学史上の位置づけをなした点が眼目であったらしい。

 ところが、19世紀末に近づき、あのボードレールが登場したことによって、悪魔的主人公のサディズムは転倒してマゾヒズムに変貌する。絶対的な力を誇った男たちはなりを潜め、代わりに光芒のごとく現れるのが、クレオパトラやサロメに代表される「つれなき美女」、すなわち「宿命の女」であった。彼女たちはやや紋切型の類型に陥りつつも(青ざめた顔、薄い唇、肉感的な身体などなど)、世紀末の文学にたびたび出現しては苦痛淫欲を欲する作家たちを虜にしていった。

 ……ここまで書いておけば、その道の精神が宿る読者は迷わず購入を決意することだろう。少々値の張る買い物ではあるが、得られるものは間違いなくプライスレスです。個人的には最後の章のビザンティウムと世紀末文学の関連性がイマイチピンとこなかった。

4.彼方

 ユイスマンスといえばデカダンの聖書とも言われる『さかしま』を執筆したことでよく知られているが、本書はそれと同様の精神で書かれた悪魔主義の聖典である。

 主人公のデュルタルは独自の文学理論を持ちつつ19世紀フランスの文壇と距離を置いた小説家であり、物語開始時点ではジル・ド・レーの伝記の執筆にとりかかっているものの、彼の精神の変化に対する説得的な因果関係を導き出すことができずに悶々とする生活が続いていた。そんな中、友人であり医師でもあるデ・ゼルミーから、彼の患者の婦人に黒ミサに参加している者がいるという話を聞かされる。

 ……というのがざっとしたあらすじだが、まあ文学作品によくあるように物語は平たんな道が続くばかりで起承転結もはっきりせず、唯一ジル・ド・レーの生涯の描写においては流石ユイスマンスともいうべく、微に入り細を穿つ悪魔的な描写に読者を悪夢に酔わせるだけの力を宿らしめているものの、肝心の黒ミサのシーンはしょっぱいし、その後に何が起こるかといえば、特に何も起こらないまま小説が終了してしまう。

 正直読む必要は全くない。『さかしま』を読めばそれでいいと思った。時間の無駄だった。

 

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