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カーコラム 「WRCに4WD革命を巻き起こした革新的マシン "Audi Quattro Gr.B(アウディ・クワトロ Gr.B ")」

 現在、世界ラリー選手権を戦う主力マシンは4WD+ターボ車であることが前提条件になっているが、四半世紀前まで、このコンセプトをラリーマシンに投入することは無謀と信じられていた。

 それに敢えて挑戦し、その上チャンピオンまでもぎとり、ラリー界の常識を一変したエポックメーカー、それがアウディ・クワトロである。

 1981年1月1日にFIAの公認を取得し、開幕戦のモンテカルロ・ラリーから世界ラリー選手権に登場してきたクワトロだが、実はその登場までには入念な準備期間があった。

 1978年5月には4気筒のアウディ80をベースに4WDシステムを組み込み、マクファーソン式ストラットのサスペンションと200ターボのブレーキが移植されたラリー用プロトタイプが製作された。

 1979年には当時No.1ラリードライバーだったハヌー・ミッコラがニューマシンのテストに招かれた。

 ミッコラは僅か30分ステアリングを握っただけで、クワトロをラリーマシンとして仕上げるためのテストドライバー契約をアウディと交わした。

 クワトロのラリーカーとしてのポテンシャルはそれほどインパクトの強いものだった。

 WRC参戦を目的にアウディ・モトールシュポルトが創設され、1981年からミッコラと女性ドライバーのミシェル・ムートンをドライバーに起用し、最高出力360馬力を搾り出すDOHC5気筒の縦置きエンジンとフルタイム4WDを搭載したクワトロで活動を開始した。

 デビュー戦のモンテカルロでは2台でもリタイアとなったが、雪のスウェーデンではミッコラが優勝を果たす。

 後年ミッコラは「スウェーデン以外のドライバーとして初めてスウェディッシュラリーを制したドライバーという名誉を与えてくれたマシンだ」と語っている。

 ミシェル・ムートンが女性ドライバーとしてだけでなく、トップドライバーとして認められたのもクワトロがあればこそだった。

 ムートン自身、「クワトロがなかったらサンレモでの優勝できなかっただろう。今の私があるのはこのマシンがあったから、一番好きなクルマだし、一番好きなチームだった」と懐かしそうに語っている。

 1982年にはスティグ・ブロンキストが加わりメイクスチャンピオンを獲得したが、ドライバーシリーズは2、3、4位という成績で終わり、ドライバーズチャンピオン座はライバルのロールに譲った。

 Gr.Bの過渡期となった1983年、ミッコラは4回の優勝でチャンピオンとなったが、メイクスタイトルは逃した。

 1984年5月にエボリューションモデルのクワトロスポーツが公認を取得した。

 ウォルター・ロールを加え、4人のドライバーと揃えたアウディは、メイクスとドライバーズのダブルタイトルを手中に収めた。

 しかし、Gr.Bの禁止、アウディのWRC活動中止もあり、パワー的に450~600馬力までパワーアップしていたクワトロスポーツは、それ以降、北米のIMSAレースやパイクスピーク・ヒルクライムといったパワーを競う競技にしか活路を見いだせなくなっていった。

 アウディ・クワトロが誕生してから32年、今や世界ラリー選手権のトップマシンといえば4WDターボがベースのワールドラリーカーだが、アウディ・クワトロが存在しなければ今のワールドラリーカーは出現し得なかった。

 クワトロこそ、今をときめくワールドラリーカーの原点なのである。


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