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沖縄と文学――基地問題を読み解く視点として――(佐喜真彩インタビュー):前編

聞き手=Ćisato Nasu
責任編集=KUNILABO

 沖縄をめぐる問題は、基地問題をはじめ、複数の要素が複雑に絡み合っており、難解に感じられます。 そのようなとき、マスメディアで取り沙汰されるような従来の文脈から離れ、まったく違う視点から沖縄をみたら、何か新しい視点が得られるのではないでしょうか。たとえば、文学はその一つかも知れません。
 そこで、KUNILABO2019年4月期講座「文学から見る沖縄――「自画像」に抗して/『自画像』を求めて」を担当いただく佐喜真彩さん(一橋大学大学院言語社会研究科博士課程)に、お話を聞きました。佐喜真さんのご専門である 「沖縄文学」は、多くの人にとって馴染が薄いかも知れません。沖縄文学とは何か、そしてそれを今学ぶことの意味をうかがうことで、言葉の世界を通じて「沖縄」を読み解く手立てが見えてきました。

沖縄文学の作品を読んでみると、先代の人々が言葉の世界で闘ってきたことを感じさせられた

――研究分野に関心を持ったきっかけを教えてください。

 私は、少し回り道をして沖縄文学に出会いました。元々、琉球大学で沖縄文学ではなく英米文学を学んでいたんですね。けれども、大学3年生のときに、やや異端的なアメリカ文学の授業を受講した経験をきっかけに、それまで私が漠然と抱いていた文学に対するイメージが根底から変わり、自分が生きている場である沖縄の文学に向き合うことになりました。

――異端的な授業というのは?

 私が所属していたコースが開講していた授業は、一般的に、アメリカ文学やイギリス文学のキャノン(正典)と言われる、アカデミズムにおいて学ぶに値するものとして権威づけられた作品を解説するものばかりでした。しかし、そのアメリカ文学の授業が取り扱っていた作品や文学理論は、植民地主義の記憶が題材となっているものだったのです。その中でも、特に、韓国系アメリカ人女性アーティストのテレサ・ハッキョン・チャの『ディクテ』との出会いは、文学研究に関心を寄せる原初的な体験でした。チャは、日本の満州侵略に遭った母を持ち、1963年に韓国軍政を逃れアメリカへ渡り、映像作家やパフォーマンス・アーティストとして芸術作品を残しています。『ディクテ』は、写真、詩的散文、未完の手書きの原稿、公的文書などから構成されるコラージュ風の視覚テクストのジャンルに近い文学作品です。植民地主義の痕跡が表現の核となっており、さらに一般的な文学形式から程遠い様々な表現技術を駆使して制作された(ここでは「執筆」というよりも「制作」という方が適切だと思います)この作品には、読者の身体感覚に何かを突きつけてくるイメージが溢れています。その時代背景に無知な私にでも、何かが届けられ、それに促されて、理解できないままでも読み進めたのをはっきりと覚えています。この作品を読むだけでは、植民地主義の歴史を十分に学ぶことはできませんが、一般的な歴史叙述では語りえない何かが表現されていることを感じたのです。そのアメリカ文学の授業でそういった作品を読むことを通して、文学作品を読むという行為は、既存の価値観を失うことに自分を晒すことであり、それゆえに新たな価値観の創出に導かれる行為なのだろうと思うようになりました。

――佐喜真さんを文学の世界へと導いた作品は必ずしも言葉だけで表現されたものでなかったというのは意外です。理屈ではない何かに突き動かされたのですね。

 そのように考えるようになったときに、ふと自分が生まれ育った沖縄へ初めて目を向けるようになりました。植民地的経験を持つ沖縄にはこのような文学はあるのだろうか、と。それまで、文学とはキャノンと呼ばれる作品だけに与えられる称号のように思っていた私は、恥ずかしいことに、まさか沖縄に文学らしきものがあるとは思っていなかったのです。実際に沖縄文学の作品を読んでみると、歴史の重みをずっしりと含んだ言葉がいろんな形で表現されていることに、すぐに気づかされました。先代の人々が言葉の世界で闘ってきたことを感じさせられたのです。年表や表面的な歴史記述から得られる単なる知識としてではなく、自分が生まれ育った土地の歴史と、そこで継承され蓄積されている人びとの感覚に触れたい、という想いに突き動かされ、卒業論文で戦後沖縄の詩人・清田政信(※1)を題材に取り上げました。これが、私の沖縄文学研究の始まりです。

――沖縄文学とは、どのようなものでしょうか。その起源や特徴を教えてください。

 沖縄文学の特徴は、明治時代の近代化と切り離して考えることはできません。大日本帝国による沖縄の植民地化が始まる1879年のいわゆる「琉球処分」以降、沖縄はやむなく強いられる形で近代日本国家の一構成部分として組み込まれました。近代化とは、単に伝統的なものの中に近代的なものが流入するということではなく、「処分」という言葉が示すように、それ以前の価値観念の転換を要求するものでした。それゆえ、近代化政策によって、沖縄の社会や文化のあらゆる面において、伝統的なものとの断絶が現れました。文学の面においても、伝統的に行われてきた文学表現とは異なる新しい表現が求められるようになったのです。このような近代化の影響を受けた沖縄の文学作品を、私は琉球文学と区別して「沖縄文学」と呼んでいます。
 しかし、沖縄文学は日本文学の一部として統合されたり、あるいは単なる日本の一地方の文学として位置付けられたりするべきだとは決して思いません。その根拠が、先に述べた沖縄の植民地化の経験です。近年、専門家の間では、この植民地化の影響によって、日本国籍は持たないものの日本語を使用し表現する旧植民地出身の作家たちの文学は「日本語文学」と呼ばれるようになってきています。これは「日本文学」へのアンチテーゼとして発せられています。つまり、それは「単一民族である日本国民による日本語の文学」としての「日本文学」を問うているのです。在日朝鮮人作家の金石範(※2)は、日本文学について次のように述べています。「明治以後、日本が資本主義化をすすめ、帝国主義へと成長していく、そういう『近代精神』形成の一端を担い、反映したものが日本文学なんです」(※3)。日本語文学とは、そうした「日本文学」への批判に基づいているのです。このような植民地的経験という視点から「日本文学」を問い直すという動機が沖縄文学にもあると、私は理解しています。

――「日本語文学」。こちらも、多くの人にとって馴染がないかも知れませんね。

 近現代沖縄文学に関する複数の重要な書物を残した岡本恵徳(※4)は、近代の沖縄の人々の言語使用状況を「二重性」や「二重の構造」と言い表していますが、これは大事な指摘だと思います。すなわち、二重性とは、近代日本語が沖縄の伝統的な言語を完璧に駆逐してはおらず、沖縄の伝統的な言語は近代日本語に圧倒されつつも、私的な関わりの場面や日常生活の感性的な領域においては、相変わらず盛んに用いられていたということです。そのため、公的な言語としての近代日本語と私的領域で用いられる伝統的な言語は、緊張関係を保っていました。近代化が進むにつれ、その私的領域である日常生活の次元での感性にまで近代日本語が入り込み、伝統的な発想や感性そのものが、共通語としての近代日本語によって規制されていきました。しかし、言語の緊張関係とは決してそれだけではなく、逆にその共通語のうちに伝統的な発想や感性をしのび込ませる可能性も秘めているということでもあります。
 この言語の緊張関係は、より複雑になっていますが、戦後の沖縄文学にもみられます。特に1972年の沖縄の日本復帰以降、一つの作品中に日本語とシマクトゥバ(私はこれを沖縄の日常の感性的領域で培われた言語だと思っています)の両方を駆使し表現する作家が増えるのは、この近代化の経験を問い直す試みによるものです。戦後沖縄文学におけるシマクトゥバの使用は、日本の一地方の特異性としての脚色ではありません。それは、大日本帝国以来続く日本国家の植民地支配に対する沖縄の闘いが、言語において現れたものなのです。

沖縄という場を通して、未だ達成していない共同体の創造に向け、粘り強く分断を超えて行こうとする営みこそが、沖縄文学の魅力

――沖縄文学の魅力は何でしょうか。

 一言で言えば、来るべき共同体の創造に向けて新しい関係性の発見を絶えず試みていることだと思います。
 戦後の沖縄文学は、人びとが分断される実態を日常の中から捉え、そしてそれに抗う新たな関係性を発見しようと試みてきました。たとえば、新城貞夫(※5)という歌人の例を挙げます。米軍統治下にあった1960年代の沖縄では、「異民族による支配からの脱却」という言葉が叫ばれ、かつての植民者である日本国家を「祖国」として見つめ、民族的一体感を基調に日本国家への復帰を求める祖国復帰運動が勢力を増してきました。こうした時代背景のなか、新城は短歌を用いて、米軍において人種的に劣等とみなされる黒人兵(「ニグロ」)への不可能な愛を描いています(※6)。

――なぜ、短歌が用いられたのでしょうか。

 短歌は日本の情緒を表現する日本文学の古典的な形式だと思いますが、新城は、これを用いても、祖国復帰運動と同じように、沖縄と日本の民族的一体感を肯定していたわけではありませんでした。逆に、彼は、沖縄で生きる人びとの生が、日本国家に再び統合されることに抗っていました。短歌を取り入れた新城の文学表現は、日本文化の情緒の力学の中に取り込まれてしまう危険性があったはずです。しかし、敢えて彼は短歌を取り入れました。それは、その時代に沖縄で生きるのに、日本国家を「祖国」として見てしまう呪縛から逃れることが容易ではなかったからです。その生を表現するために、短歌という日本文学の型を利用したのです。いわば、魅了されるゆえに逃れがたい枷としての型ですね。
 また、新城の短歌の使用は、日本的情緒への裏切りを表すためでもありました。彼はそうした短歌という日本文学の形式の中に、黒人兵への不可能な愛を描きました。つまり、日本文化の情緒を喚起する型の中で、それとは異質な心情を表現しようと試みたのです。国家へ統合されようとする人びとの心情を、別の関係性の創出に向けて転化させるために。実際に作品を読んでいただければ分かると思いますが、彼の作品は、単一民族としての日本国民の意識を強化するよりは、逆にその自我の失墜の危機を露呈させています。彼は、沖縄と日本の民族的一体感とは異なる人びとの心情の結びつきを模索していました。そうすることで、新しい関係性を発見し、来るべき共同体を夢想していたのです。
 一つの事例を出しましたが、このように、沖縄文学では新しい関係性の捉え直しが、あらゆる方法のもとで試みられています。

後編に続く)

★佐喜真さんの講座に興味を持った方は、こちらをご覧ください。

★沖縄文学・書籍紹介(講座で使用予定)
山之口貘『山之口貘詩文集』講談社文芸文庫、1999年
目取真俊『水滴』文藝春秋、1997年文春文庫、2000年
岡本恵徳・高橋敏夫・本浜秀彦 編『新装版 沖縄文学選 日本文学のエッジからの問い』(勉誠出版、2015年)

(※1)清田政信(きよた・まさのぶ)1937年-。久米島生まれ。詩人、評論家。琉球大学卒。詩集に『清田政信詩集』(永井出版企画、1975年)、評論集に『情念の力学』(新星図書出版、1980年)、『造形の彼方』(ひるぎ社、1984年)などがある。
(※2)金石範(きむ・そくぽむ)1925年-。大阪生まれ。日本語で小説を書く在日朝鮮人作家。戦中、済州島で暮らす。作品に『鴉の死』(講談社文庫、1957年)、『火山島』(文藝春秋、全7巻)(1983〜97年)などがある。
(※3)『異郷の日本語』青山学院大学文学部日本文学科編、社会評論社、2009年、19-20頁。
(※4)岡本恵徳(おかもと・けいとく)1934-2006年。宮古島生まれ。琉球大学教授。著書に『現代沖縄の文学と思想』(沖縄タイムス社、1981年)、『現代文学にみる沖縄の自画像』(高文研、1996年)などがある。
(※5)新城貞夫(しんじょう・さだお)1938年-。サイパン生まれ。歌人。
(※6)新城貞夫『朱夏 新城貞夫歌集』幽玄社、1971年。また、彼の短歌に見られる黒人兵への不可能な愛を考察する新城郁夫の論考「沖縄・歌の反国家-新城貞夫の短歌と反復帰反国家論」、「「愛セヌモノへ」-拾い集められるべき新城貞夫の歌のために」(『到来する沖縄-沖縄表象批判論』インパクト出版会、2007年)を参照されたい。

佐喜真 彩(さきま・あや)
近現代沖縄文学・思想。一橋大学大学院言語社会研究科博士課程在籍。
論文に「「他者」を聞きとるということ――崎山多美における音の考察をとおして」『言語社会』9号(2014年)、Voices of Despair: Encounter Between a Sex Worker and a Solider in Postwar Okinawa in Sueko Yoshida's Love Suicide at Kamaara, Correspondence # 3 (2018) など。


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