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今回の敗訴で「何か」が得られたのか?

 2022年8月29日、私が起こした「健康増進法違憲訴訟」の判決が東京地裁で言い渡された。
 その主文は「原告の請求を棄却する」。即ち、敗北である。
 しかし、問題は、その「負け方」にある。どのような判決内容なのか、ここに問題の全てがあるといっても過言ではない。
 そもそも、違憲訴訟に勝訴するなど、戦後80年弱の司法史の中でも数えるほどの事例しかないのだ。

 本稿では、今回の「負け方」について、核心的なポイントに絞って、自己評価を試みてみたい。
 その理由は、東京高裁に控訴するかどうか、私はずっと悩み続けているからだ。
 得られたものがあったとしたら、控訴することで失う可能性があるから慎重になるべきだし、得られたものがなければ、もはや失うものはなく、控訴へと突き進むべきだからだ。

 まず最初に、今回の訴訟ロジックの基本的な骨格を説明しておく。

 私は、喫煙者側の権利要求として、しばしば耳にするような「喫煙の自由」や「趣味・嗜好の自由」といったような個人権や幸福追求権を援用することには、ほとんど意味がないと確信していた。
 これまでに「喫煙の自由」が判例として認められたことはなく、「趣味・嗜好の自由」は、憲法的な観点から見れば、例えば「表現の自由」などと比較すれば、その重要性は明らかに劣るからだ。
 従って、この種の権利概念を援用することで訴訟ロジックを組み立てたとしても、最初から勝負にならない、これを私は確信していた。

 しかも、訴訟を起こした時点で公表した文書「「健康増進法」に対する違憲訴訟の趣旨について」でも明記したように、私は健康増進法による規制そのものに反対している訳ではない。
 受動喫煙の防止を公共の福祉として認めることは、今回の訴訟の大前提であった。

 世の中には、受動喫煙の害そのものにも異を唱える「喫煙原理主義者」もいるであろうが、それは私の行く道ではない。
 その種の議論を始めると、実に不毛な「科学という名のイデオロギー論争」の泥沼に首を突っ込むことなり、そんな気は全くないからであり、しかし、それ以前に、科学的なエビデンスが何であろうが、とにかく「喫煙がイヤな人」は存在し、特に子どもは保護されるべきであり、そういった方々の意思を尊重するのは当たり前だと思っているからだ。
 ただ、ここでの問題は、この規制が、受動喫煙の防止を前提したとしても、明らかに過剰であり「やり過ぎている」こと、これに対して異議申し立てをしてるのだ。(もしも「やり過ぎている」どころか「まだ足りない」のであれば、もはや国はタバコを販売するべきではなく、さっさと非合法化して年間二兆円にのぼる税収も放棄すべきだろう)

 従って、言葉だけでしかない「喫煙の自由」などの抽象的な権利概念を一切援用することなく、健康増進法の何が「やり過ぎ」なのか、その点を明確にすることが、今回の訴訟ロジックの中核を形成することになる。
 その方法的土台として、私は次のように主張した。

本訴訟では、違憲性検出の基準として、立法目的が憲法に抵触しないことはもちろん、その目的を達成するための手段としての規制内容が、どれほど目的適合的か、更に、その規制が必要最小限であり、より制限的でない他の選びうる手段(LRA)がないか、以上の諸点が法治国家の原理として審査されるべきだと主張してきました。

 この方法の判例的な典拠として、喫煙関連訴訟では例外なく参照される「在監者喫煙禁止事件(昭和45年)」の判例を、私は、いわば「逆用」した。
 つまり(少しわかりにくいかもしれないが)、この判例では「喫煙の自由」が憲法13条によって保証されているかどうかを明確に判示することなく、在監者の喫煙規制の合憲性が、その規制内容に踏み込むことを通じて判示されたのと同様に、しかも今度は逆に、在監者ではなく市民に対して健康増進法が強制する喫煙規制の違憲性を、「喫煙の自由」などに関わることなく、その具体的な規制内容に踏み込むことによって検討すべきだと主張したのである。

 ここで二点、補足しておく。

 第一に、この方法は、喫煙訴訟にのみ限定されるものではない。ある意味では「汎用的な方法」であり、例えば、一時的な世論の暴走と思慮を欠く立法府と行政府によって制定された法律の「過剰さ」を問題にすることができる(はずだ)。
 第二に、この方法を使って一定のロジックを構築するためには、その規制は過剰であり最小限ではないこと、つまり「より制限的でない他の選びうる手段(LRA)が明らかに存在すること」の論証が必須の要件となる(註)。

  •  (註)そこから更に、その法律が過剰なものであったとしたら、その立法目的にまで立ち戻り「真の立法目的は何だったのか?」との問題提起にまで展開することができる。例えば、単なる「受動喫煙の防止」ではなく本当は「喫煙者の絶滅」こそが真の立法目的ではないか、など。

 そして、私は、上記の意味での「決定的な論証」を提出した。(と思っているが、残念なことに、東京地裁は無視した)
 その要点は、私が、上記のLRAとして提出した喫煙専用店舗については、(1)受動喫煙は生じないこと、(2)むしろ現行規制の方が受動喫煙が生じることにある。
 しかし、これだけでは人は容易に納得しないと思うので、近日中に、この「決定的な論証」を公開しよう。健康増進法の現行規制が孕む不合理性と恣意性を浮き彫りにするはずだ。(この「決定的な論証」を以下に公開した)

 さて、以上のような私の訴訟ロジックに対して、東京地裁は、どのように対応したか。
 まず、その判決の方法的土台について、次のように言う。

上記(改正健康増進法の)制限が必要かつ合理的なものであるかどうかは、制限の必要性の程度と制限される行為の内容、これに加えられる具体的な制限の態様との較量の上で決するのが相当である。

 つまり、判決に至る基本的な視点は、具体的な規制内容の比較検討にあると明言している。
 これは、私が上記で設定した方法的土台と共鳴し合っており、いわば、私が設定した土俵に乗ってきてくれたのだ。ちなみに、国は「喫煙の自由など認められていない」などと見当違いの反論を繰り広げていたが、東京地裁は私の基本的な問題設定を正確に理解した。
 この点こそ、今回の訴訟の中で、私が獲得することができた(ほんのわずかではあるが)最大の収穫であると言えるだろう。

 しかし、この収穫を、どのように見積もればよいのか?

 もちろん、結果として敗訴したわけであるから、かろうじて方法的土台を東京地裁と共有することができたとしても、そんなことには何の意味もないという意見もあり得よう。
 だが、今回の判決を、私が控訴しないことによって確定させたら、この方法的土台に基づいて、異なる立場の人(典型的には飲食店経営者)が異なる法的資源(典型的には「営業の自由」)を使って訴訟を起こしたときに、喫煙の自由などを援用する空しい空中戦ではなく、もっと地道な立脚点から健康増進法を批判する訴訟ロジックを構築することができる、少なくとも、その土台としての判例となる可能性がある。

 しかし、他方では、せっかく方法的土台を共有したにもかかわらず、今回の訴訟で敗訴した私自身が、東京地裁の判決へと至るプロセスに全く納得していないのだ。
 確かに、東京高裁へと控訴することによって、東京地裁が認定した上記の方法的土台をも抹消されるような、より過酷な判決を下される可能性があり、その結果、それこそ今回の訴訟が瓦礫の焦土と化すかもしれない。

 だがそれでも控訴して、東京高裁で、勝つ可能性はないのか?

 友人を含めた二人の弁護士は「その可能性は低い」と断言する。「それどころか、東京高裁ではマイナスになる可能性が高い」と。
 まさに断腸の思いである。

 そもそも、今回の訴訟の「勝ち方」とは、何か。
 違憲認定されるかどうかは、現実的なものではない。
 私が希求していた「勝ち方」とは、訴訟としては敗訴したとしても、司法が健康増進法の在り方に疑義を呈して、この法律の改正へのきっかけになること、それを通じて、喫煙者と非喫煙者が共生できる方法を「社会的に認められた形で再検討する」運動へと繋げてゆくことであった。

 喫煙者は、私たちは、悪魔ではない。
 生きている人間なのだ。

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