くり kurikuri

うまくいっているように見せることが生きる全てだった/依存性家族育ち/孤立無援というトラ…

くり kurikuri

うまくいっているように見せることが生きる全てだった/依存性家族育ち/孤立無援というトラウマから分かち合えるつながりをつくれるようになりたい🐳

最近の記事

なぜ企業活動から「悲しい」は排除されるのか?

思う。 なぜ企業活動から「悲しい」が排除されるのか?ないことにされるのか? 悲しい、つらい、苦しい、さみしい、、、それらはあってはいけない、タブー、NG、出入り禁止、それはここには持ち込めない。 「悲しい」それはなにかとんでもないひどいものではない。 悲しいを感じられるからこそ、次はよりよくしよう、改善しようという行動につなげられる。 悲しいを感じられないから、なにもしない。なにもしないでいられることに苦しまなくて済む。過剰適応だよな。 悲しいを排除している環境。 悲しい

    • たくさんの人に僕は傷つけられてきた、そして、僕もたくさんの人を傷つけてきた

      僕は人から傷つけられ被害を受けてきた、と気づき認めたとき。同時に、僕も同じように人を傷つけてきたと気づいてしまった。 被害の事実を認めたときに、加害の事実にも同時に直面した。そのあまりの落差を受け入れることができなかった。 自分自身への嘘が、偽りが、ごまかしが一番の苦しみだったんだ。 *** 国際結婚をし夫婦の問題をきっかけに自身の心に向き合い、それを発信しているsakuraさんのブログ。 人は主観でしかものが見れない間は「自分の思考は正しいのになぜか改善されない状況

      • 「凍りついた私」と「過剰適応する私」に引き裂かれて

        幼少期にショックを受けて「凍りついた私」と「過剰適応する私」に別れてしまった。そのふたりはあまりに断絶し引き裂かれていて、常に不安定で、コントロール不能にさせる。 私が私自身を生きることを放棄しているから、どんなに取り繕ってみても、心は虚しさと無意味感でいっぱいなんだよなあと。 *** 幼少期のショックな出来事によって、強烈な不安、恐怖、おびえの感情を持った。その感情を表に出せず、受けとめてもらえないままで、凍結せざるをえなかった。コールドスリープ。時が止まったまま。生き

        • 役に立とうとしなくても、キミはキミでいていいんだよ

          つい先日の心理カウンセリングで起きた、自分のなかの「大人の私」と「子どものぼく」との対話。 「あれはなんだったんだろう」と今でもどこかであっけにとられている自分がいる。私のなかで起きたこと。けれど、私ではないような。 たぶん、30代である私というひとりの人間のなかに、大人の私と子どもの私がいて。それも同じくらいの対等な存在としてありありとそこにいた。 だから、「私」と言い切れない感覚があるんだと思う。 うまく伝えられるか分からないけれど、今アダルトチルドレンや機能不全家

        なぜ企業活動から「悲しい」は排除されるのか?

          大人の私が「子供の私」を否定するのは、子供の視点を失ってしまっているから

          この前、「自分にはチカラがない」が自分の人生の脚本だと書いたのだけれど、しばらくしてちょっとなにかが足りない気がしていて。 なぜなら、「自分にはチカラがない」んだとしたら、人生の早い段階で絶望して自分で命を絶っていたと思うんよ。 でも、今現在までそうしてない。 ってことは、「自分にはチカラがない」→ENDで終わらないなにかがあるってことなんじゃねえ?って。 「自分にはチカラがない」の中に自分でも気づいてない隠された可能性があるんじゃねえ?って。 自分の思い込みを悪いもの・

          大人の私が「子供の私」を否定するのは、子供の視点を失ってしまっているから

          「私にはチカラがない」人生の脚本

          働いてる職場でつい最近入った職員さんが一ヶ月で辞めることが決まった。 と知った瞬間、とてつもない無力感に襲われた。 心臓をグッとわし掴みにされるような感覚。 そして、こう思った「私にはチカラがない」。 僕が新しい職員さんと関わることはそれほど多くはなかったけれど、その人も含めて全体が円滑に働けるよう、気を遣って動いていた。 それだけに、新しい人が一緒の環境に来て、そして、去っていくあまりの早さにショックが抑えられなかった。 自分はもっとなにかできたんじゃないか、こうして

          「私にはチカラがない」人生の脚本

          「毒親」という以上に「毒人類」だよなって

          「毒親」という言葉に半分納得、半分違和感があった。 その違和感はいったいなんだろうとずっと思っていた。 (あくまで僕個人としてなので、毒親という言葉を使いたい人を否定する気持ちはない) で、今はこう思う。 毒のある親がいるんじゃなくて、そもそも人間という生物に毒が備わってるんだなって。 *** 歴史を少しでも勉強すれば、人類が過去数千年数万年どれだけろくでもない環境破壊や生物殺戮をしてきたかがわかる。 人類だけがこの地球の支配者だと言わんばかりの傲慢さ。 ついにはこの地

          「毒親」という以上に「毒人類」だよなって

          学び直したい、生き直したい。破滅してしまう前に

          生きていく上で、学び直していかないと、自分が無自覚に暴力をふるってることに気づけない。 自分の加害性に気づけない。 暴力を向けられる相手はもちろんのこと、気づけない自分自身をも苦しめることだなあって。 不幸って、そんな姿を指すんじゃないかな。 *** 足立区の区議会議員の性的マイノリティに対する偏見に満ちた発言。 そして、なにより彼の論理破綻した語りにめまいがした。 LGBTと言われて、性の自由を尊重しようという地方自治体があちこちに生まれつつある。 私は人間の生き方で

          学び直したい、生き直したい。破滅してしまう前に

          大人になった私から、自傷してまで生きたかった子供の私へ

          自分にムチ打って恐怖によってがんばらせる生き方しか知らなかった。 そんな生き方しかしてこなかった。 言い換えればそれは「心のリストカット・心の自傷行為」と呼べるんじゃないかなって、以前につらつらと書いてみてて。 で、そんな生き方は悲しいよなーって。 でも、しばらくして、自分を傷つけてしまうなんて悲しいって思ってるのは今の大人の自分から見た視点でしかないよなと。 子供の視点から見たら、そうまでしてでも生きたいんだよってことなんじゃないかなって思い始めていて。 自らを傷つけ

          大人になった私から、自傷してまで生きたかった子供の私へ

          人と親密になるにつれ、不安でいっぱいになる

          障害福祉サービスを利用して、就労継続支援の事業所で働いてるのね。 職場で仕事を通じて他の利用者たちや支援員のことを知るのはもちろん、職場以外でもレクリエーションといって、食事会やバーベキュー、トレッキングなどの催しが定期的に行われてて。親睦を深める機会がいくつもあるのだ。 来月はちょっとした遠出の旅行企画なんかもあって。せっかくだからと参加することにしたのね。 けれど、参加すると決めてから次第に不安でいっぱいになっていく自分がいることに気づいた。 なんの不安? 自分が参加す

          人と親密になるにつれ、不安でいっぱいになる

          心のリストカット・心の自傷行為

          心理カウンセリングを受けている。 つい最近気づいたのは、がんばってカウンセリングを受けていたこと。 がんばってありのままの自分を語ろうとしていた。がんばって回復するんだと意気込んでいた。 そんな自分がバカバカしくなった。 カウンセラーの前でそんながんばりをしても仕方ない、意味がない。自分もカウンセラーも欺いてしまう行為だよなって。 そう思って、これまでのようながんばりをしないように意識すると、それ以外の方法を知らないし、自分の内側をのぞいてもなにもないから、さっぱり言葉が

          心のリストカット・心の自傷行為

          暴力を受けた私、暴力をふるった私

          誰しもが暴力の構造に巻き込まれ、それによって人は二重の苦しみを抱えているんじゃないかなって。 被害を受けて傷ついた苦しみ。そして、自分も加害側に回って人を傷つけてしまった罪悪感という苦しみ。 被害者であり加害者であるという相反するような二重に傷ついた自分がそこにいると思った。 *** 津田大介さんのネットメディア「ポリタスTV」。 先日報道されていた「宝塚音楽学校が不文律撤廃へ」を受けて、OGの東小雪さんとの対談。東さんの語りから、この社会の生き苦しさの根っこのようなも

          暴力を受けた私、暴力をふるった私

          悲しみの感じ方を忘れてしまったよ

          本を読んで親にも事情があったんだと知る、この世界の人間の歴史を学んでもうずっと前から負の連鎖が続いていたことを知る。 すると、親や大人の言動によって傷ついた悲しみの感情が行き場を失う。 もうクヨクヨめそめそしててもしょうがないじゃないかって。理性的に頭を働かせればそうなってしまうよね。 行き場を失った感情はまさに今の自分のようだ。 どこに行くあてもなく、どうにもならない状態で立ち尽くしている。 生きたいもなければ、死にたいもない世界。 感情は死なずに消えずにずっと残り続け

          悲しみの感じ方を忘れてしまったよ

          「あなたは私にとって大切な人なんだよ」って言ってほしかったな/宇多田ヒカル「あなた」

          宇多田ヒカルの公式チャンネルがライブ映像をアップしてたんよ。 その中の「あなた」という曲が心にじわっときちゃうんだな。 大切なあなたを愛おしく想う。 そんなメッセージに涙腺がゆるむ〜。 大切な人にできることは「あなたは私にとって大切な人なんだよ、愛おしくて尊い存在だよ」って、伝えることに尽きるんじゃないかなって。 そう、僕が子供の頃にほしかったのはそのメッセージだったなって。 学校とか勉強とか将来の夢とかそういうもの以前に、「あなたは私にとって大切な人なんだよ」って、矛盾

          「あなたは私にとって大切な人なんだよ」って言ってほしかったな/宇多田ヒカル「あなた」

          「おじさん」へのトラウマ

          目上の人・立場が上の人・権威がある人の強い言動を目にすると自分の存在がギュッと握りつぶされるような感覚に陥る。 大声で怒鳴ったり、あからさまに不機嫌になってみせたり、ダメ出しを延々と繰り返したり。 自分が損なわれるような感覚を素直に感じてしまうと保たない。 だから、感覚をマヒさせて、感じないようにする。 その具体的な行動として、「なかったこと」にしてしまう。 怒鳴り声も不機嫌もダメ出しもなかったんだ、と思い込むようにする。 トラウマってやつなんだろうなあと思ってはいたけれ

          「おじさん」へのトラウマ

          ぶっ壊したくなる願望

          ついこの前、あべちゃんがお腹を痛めたらしくて、辞めちゃったね。 それを受けての平川克美さん。 「少なくとも30%の日本人が、それ(安倍政権の破壊)を許容した。」ってところが個人的にそうだよな〜って。 自分の住む社会を自分で破壊する行為。そして、それを支持する人たち。 それってリストカットのような自傷行為と同じじゃないかな。 さらには、この前読んだ「あおり運転をやめられない孤立したおじさん」とも通ずるものがあるよなって。 破壊することがやめられない、生きがいになっている、依存

          ぶっ壊したくなる願望